江原 恵 より
素材追求型料理文化のもたらしたもの
「素材のうまみを引き出した調理」と聞いて不味そうだなと感じる人がいるだろうか。
また、素材それ自体が上質であれば、その地味を引き出してやることが、最高の調理法であるとすることに
疑いをむけることはないだろう。それほどに我々の素材追求指向は当たり前で根深い。
今回はあえて、その当たり前にいやらしくつけこんでぼやいてみようというわけです。
かつての日本人は粗食ばかり食っていたと前に書いたと思いますが、
そんな庶民も別に好きこのんで野菜や干物ばかりを食べていたワケじゃなく、
経済成長や情報化の世に乗って、珍しくて面白いものをいろいろ食べたくなったわけです。
で、昔の人(明治末期から昭和初期のころの人)が、自分たちの食生活向上を目指し、
それを調理のやり方に求めたとき、それを満足してくれそうな目標、手本は料理屋料理にしかありませんでした。
栗原はるみや、カノウ ユミコやマロンちゃんのように「家庭料理」をおいしくしてくれる知恵者はいなかったのです。
当時の家庭料理と言えば、漬け物は漬け物、煮付けは煮付け。煮転がしは煮転がし、それしかなかった。
「単一型料理」といって醤油を代表とするアミノ酸系調味料の味付け一点張りであって、
それこそ「親のかたきのように」季節のものそれだけを毎日毎日食べていたのでした。
そんな日常料理のなかに、料理文化のあたらしい発展が見られる可能性は期待できなかったのです。
では、料理屋料理がどうだったかといえば、こちらもやはり単一型の料理でした。
懐石の大家、辻嘉一はこう記している。
「調味の善し悪し料理の価値を判断するのではなく、材料の持ち味の良い悪いを味わい分ける味覚を、ひたすら洗練させて参りました」
「天恵の美味を素直に味わい」
「新鮮良質の材料を得れば、美味の大半を得たのと同様の料理、その材料の持ち味を最高に
発揮するには、なるべく手数を加えてはならない料理」
(辻嘉一『煮たきもの』)
つまり素材の追求にこだわればそれで良いのだから、調味は甘辛の単一型。それだけでよかったのです。
つまり単一型料理は、素材追求型の料理文化の裏返しだったのです。
素材追求型料理文化は、季節や旬にこだわるという発想に通じます。
季節感を楽しみ、おいしくいただくことは悪くはありません。
しかし、そのこだわりが高級品指向、ブランド指向、本物指向に盲進するとき、
食品表示偽装、着色料、香料によるごまかし食品、以前紹介した松阪牛に見られるような
ブランド食材のねじれた構造、不自然にキレイな食品にひそむ添加物など、様々な問題を引き起こします。
食の安心安全の議論はえてして、企業の営利優先体質に責任を求める結論になりがちですが、
その原因は、素材追求型の日本料理文化を信奉して疑わない、我々民衆の意識にも深く存在しているのです。
こうした、ある物の良さを追求することのみに注目し、その裏側で起きる諸問題との関連性については思慮が遠ざけられる。という意識の単一型構造は、情報の良い面だけを見て、すぐに何にでも飛びつくという体質に現れる。
単品ダイエットや、特定の食品による健康法がいつの時代にも消えることが無いのはそのためです。
健康(風)食品がテレビで放映されるや、翌日には店頭から消え去ってしまうという、お笑いにもならない国民行事が毎週のように繰り返されている。
白いんげんが良いと聞き、なま焼け状態で大量に食べた人が病院送りになったという。
バカバカしい話だけど、ひょっとすると、だれにでもあることの「程度の差」に過ぎないのかもしれない。
ご用心を。
『家庭料理をおいしくしたい』
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