神崎 宣武
本書は、日本と、その他東アジア諸国との、食器や箸文化の違いや、日本における「うつわ」のうつりかわりを論じている。
しかし、たんなる食器史として時系列的に並べたてる退屈な物ではない。
「「何をどう食べてきたか」が食器のかたちをも定める」というスタンスから、日本の食事・食器文化の必然による成り立ちを解読していくという試みである。
たとえば、磁器製茶碗の普及史を論じては、日本人の主食は米のご飯ではない。という史実から、雑穀や畑作物の混ぜ飯、つまり”かて飯”の存在をクローズアップさせている。
米のご飯とは違い、かて飯はぽろぽろして食べにくいものである。
そうなれば口を器につけ、かきこみ食べる食事作法が生まれるだろう。
我々の飯茶碗、すなわち持ち上げて手に馴染み、口ざわりのなめらかな食器の普及は、このような生活史と密接していると読み解かれていく。
さらに言えば、昔の飯茶碗は半球状のボウル型だったのだが、戦後は円錐を裏返したようなシャープな形に変わってきたという。
この変化は、先のかて飯を主とした食生活から、米のご飯を食べられる食生活へと変わったことと深い関係があると述べる。
米のご飯は粘りがあり、箸でつまんで食べることは難しくなく、もはや器を口に当ててかきこむ必然はない。
米をつまんで食するにおいては、深い丼型よりも、より皿に近い円錐型の茶碗の方が、底の米粒を食べやすく、茶碗の形が変わってきたのは機能的必然からと推論されるのだ。
また、つまんで食べるため、箸の先は尖っているのが都合良い。
サジを用いて飯を食べる中国や、朝鮮の人たちの用いる箸が太いこととの相違は、このような食事文化の違いから生じていると推理することが可能なのである。
これらは、本書の一部を取り上げたに過ぎないが、全体を通して考えておくべき教訓が含まれているように思える。
著者が柳田国男の言として引いているが、
とあるように、米を特別に神聖視しすぎ、日本食文化の本流であると錯覚し、もともと多様で合理的な食文化を亜流に落とし込めた、その偏屈な神経が、日本食レストランの認証制度という馬鹿げた発想につながっていくに違いない。米は日本人の主食物だということを信じて疑わない人は以前から相応にあった。さういう人たちばかりが、日本の生活問題を論じようとしたこと、それと一方には米は奢りであり、従うて米が食えるのは幸福だと思うやうな、素朴なる考へとが合体して、終始注意を此一点に集め、非常に我々の食糧問題を窮屈にしたことは事実である。
ナショナリズムが全て悪いとは言えないが、自らの文化の依って来たるところを見つめることなく、現に完成された表面的な形式に自身をはめ込み、その中での”文化”活動に満足する閉塞的状況には陥りたくはないものだ。保守的革新というのは難しいことなんだけど。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


