熊谷 真菜
「たこやき」には、人の心をひく不思議な魅力を感じる。
買う気はなくとも、つい店の様子をのぞいている。
整然と並ぶたこやきの、でもどこか愛嬌のある姿は、人の気持ちを和ませる。
たこやきが、どうして好きなのか。この魅力はどこからくるのだろう。
ある人はたこやきに、屋台や駄菓子屋の思い出を、ノスタルジーを、懐かしく見るのかも知れない。
数本の楊枝でやや不自由に、アツアツをちょっと緊張気味に構えて、食べる好奇心を、子供みたく刺激される喜び。
ネタの焦げる香ばしい、甘いソースの香り。キリさばきと期待感。
そんな気持ちがあったのかどうか、それは知らない。
が、ともかく、本書は、そんな愛しきたこやきに魅せられた著者によって、諸業者への聞き語りをメーンに、たこやきたちの系譜を丹念につづりあげた記録である。
一つの仮定として、たこやきの先祖なのか、友人なのかはっきりしないが、明石の玉子焼き、いわゆる明石焼きのルーツを、明石玉という擬珊瑚の装飾品加工からの技術移転と、そのとき発生する卵の黄味の廃物利用に求めている。
「道具、材料、形態、製法、これらにたずさわる人的な面」のダイナミックな結びつきから、新たな食文化の開花を、鮮やかに切り出してみせる。 その真相は、今はもう解き明かすことができない。しかし、ひとつの食文化が生まれ、広まることの背景に、ある地域や集団に広く根付く、民衆の様々な潜在的資源をがあることを、仮説とはいえ、実感せずにはいられない。
「芸術と生活のぎりぎりのところにあって、大衆芸術や純粋芸術の元にある、またはきっかけになるような、芸術の最も基本的な形」である、限界芸術を、たこやきに見いだしている。
「たこやきを焼くことそのものが、生きるための基本的な生活であり、かつ、楽しい作業となっている。道具の使い勝手をよくしたり、コナの配合を工夫したり、微妙な手加減に左右される技術は、体験のなかから生まれてくる。現代社会が失いかけている。もう取り戻すことも困難な、暮らしに密着した楽しい作業。労働と遊びの感覚が融合したような、暮らしを楽しくする技術がここにある。これが限界芸術としてのたこやきの姿だ。」
明日からたこやき屋を始める訳にはいかないけれど、願わくば、限界芸術チックな毎日が送りたいものである。
まあ、本業をなおざりに、脇見人生の馬鹿が言うことではございませんが。
最後に、本書をご紹介いただきました、ボン 大塚様に深く感謝いたします。
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