斎藤茂男
お金はたくさん無くていい。ぼちぼち充実して、心身健やかに生きていくことはできないものだろうか。と、考えてしまう。
考えながら私の理性は、甘い。まじめに働け、この社畜ヤロウ。と、いつも自分を脅迫する。
ああ、そうだ。まじめに働かなければ立派なオトナになれない。
だけど、いったいどこまでマジメになる必要があるのだろう。どれだけ稼いだら幸せなのだろう。何を手に入れたらいつ死んでもいいと思えるのだろう。いや、死ぬのが惜しくて仕方がないほど手放したくないものは、いつ手に入るのだろう。
全部よくわからない。もちろん手にとって試すこともできない。
ある若者が、絶望的に停滞した僻地の山村を飛び出し、出世と豊かな暮らしにあこがれて、保険の外務員となるエピソードがあります。
彼は、常に厳しいノルマに追われるも、夢あきらめきれず、成績を繕うため、ついに手を出したサラ金をによって、破滅へと向かってしまいます。
仕事のためにサラ金にまで手を出して破滅だなんて馬鹿げている。そう思うかもしれません。しかし、彼を馬鹿にする私たちがやっていることは、将来の豊かさを仕事に託すことしかできなかった彼とは、大して違わないでしょう。
私たちが求める豊かさ。つまり仕事の苦痛を忘れるための様々な娯楽は、自らの会社の高い生産性によって、ようやく成り立っています。よって、より自由な時間、豊かな娯楽を手に入れようと望めば望むほど、自らの労働を締め上げるのです。そのことが労働をさらに苦痛なものとし、その反動としての娯楽は、際限なくより強い刺激を求めるのです。
会社は会社。自分は自分らしく、充実した豊かな暮らしをしているつもりでも、その暮らしそのものが会社に依存しているという点で、彼とおなじ会社主義に生かされているのです。
では、会社に依存しないで豊かに暮らすにはどうすればよいのでしょうか。簡単に言えば、仕事を与えられるのではなく、作り出す人間になり、仕事と生活、娯楽が一つになれば良いと言うことでしょう。
簡単に言いましたが、当然ながら私もそんなステキな人間ではありません。仕事と生活は乖離し、娯楽は苦痛の反動としての逃避です。
最初に言ったぼちぼちの充実とは、これらバラバラのことが一つになったと感じられるとき、初めて得られるものなのかなと思います。
労働の主体性というのでしょうか。仕事と生活を結びつけるものとして、食を考えたい。
食う寝る仕事。どうせ毎日同じことの繰り返しなら、食うことを充実できるかそうでないかで、人生は大きく変わってくると思うのですが、どうでしょう。
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