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非@食べ歩き

食の本~感想・記録・書評みたいなこと。食のニュース批評・食文化の研究を通して食事力を鍛えてます
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 家族には、社会的に求められる機能があり、それは、政治的に決定されるといいます。
 老人扶養は、かつて家族に求められた機能でしたが、年金や介護保険などの整備によって、原則的に社会の負担するものとなりました。

 子を産み育てることは、現在でも家族の果たすべき機能です。
生殖行為としての子育ては確かに家族のものですが、しつけや教育についてはグレーな部分です。

 教育は、受けさせる義務があるだけで、家族が教育することは求められていません。どちらかといえば社会の負担と考えられていて、それは学力の低下への批判が、教育の現場に向けられていることに現れています。

 一方、しつけは、家庭で行われるものと考えられています。行儀の悪い子供に、「どこの学校へ行ってるんだ」とは叱りません。

 家族における規範と考えられていることは、政治的な決定に沿って変化し続けています。政治的な決定は国民の総意でもあります。

 しつけは家庭のものとはいいましたが、最近、食育と称して、この規範を改め、社会へ負担させる制度が始まりました。 箸の上げ下ろしまで社会が面倒を見てやろうというわけです。

 老人介護の負担が軽くなったことは、多くの人にとってありがたいことだったと思います。 しかし、食育がしつけの一つだとして、その負担を社会が負担することが、家族にとって良いことなのかどうかは、いまは各家庭の判断に任せるしかありません。

 食育は大事か、といえば大事なことです。 しかし、それを政治的に制度化することは、食育というしつけを家族の機能から奪っていくことです。 しつけは家庭のものだ、という規範に照らせば、これはまったく矛盾した方向へ向いているのです。
 政府お墨付きで「食育が大事」と活動される先生方は、この点に留意されたいと思います。

 しつけの社会制度化が、時代の流れならば、それも構わないと思います。
しかし、各家庭で行われるからこそ、そこに多様性があり、均質ではない、人と世の中があるのではないかと思う。

 江戸時代までみられた葬送や埋葬のしきたり、相続や家族形態の土着伝統的な多様性は、政治的な整備によって切り捨てられていった。

 食の文化もまた、食育教育によって、政治的に均質化されはしないだろうか。 食べられていなかったものを食べていたように教え、食べられていたものが逆に無視され、都合のよい幻の食文化が政治的につくられてはいないだろうか。

 人々の多様な暮らしと生きがいのなかに、食だけが、ある理想的な姿で浸透することはあり得ない。理想的な食事、理想的な暮らし、理想の家族、理想の未来。すべてが揺らぎ迷走する社会で、政治的に食文化が語られることにどれほどの意味があるのか。と思うのです。

 理想の暮らしをかなえる、理想の食文化を自分で考えていける。そんなふうになりたい。


(参考文献)迷走する家族―戦後家族モデルの形成と解体 (単行本)
山田 昌弘 (著)
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