山口 昌伴
いまどきのキッチンプランはなぜ紋切り型なのかと、住宅に関わる仕事をしながらいつも思う。
nLDKのKの一角になんらかの厨房設備がデンとおいてあるのが一般的でほとんどそうなっている。
同じような物を食べている一つの文化のなかで、そこでの暮らしにあった形式として、台所がある程度似た形になるのは別に不思議ではないでしょう。しかし現代日本のキッチンの標準型が、自らの食の習俗に沿うかたちで洗練させてきた結果なのかどうかは怪しい。
サラリーマンの家も、自営業者の家も、公務員の家も全部同じ。
食と生活スタイルの多様化がこれだけ進んだというのに、キッチンはみんな同じ。
カウンターが長いとかL型とかアイランド型とか、収納が多いとか、シンクが深いとかは枝葉の違いで、いわばかけられる予算の大小の差でしか無い。
その家の食文化を形にしようという意志も感じないし、そもそもそんな文化が家づくりに必要かという自問さえ施主にあるのかどうか。
家が建ったらステキな暮らしが始まる・・・なんてことはまぁない。
システムキッチンにお金をかければ食生活がもっと豊かになる・・・ こともない。
じゃあどうしたらいいんだよ、とここまで読んでくださった方には申し訳ないですがわかりません。私もそう思いながらこの本を手に取ったのです。
日本の台所、食の空間に宿っていた合理的な意味を知り、他国のそれと比較すれば、西欧の模倣一辺倒だったキッチンの近代化が招いた食文化の喪失が見えてきます。
住宅事情を考えれば、かつての農村民家の台所のような広大なスペースを確保することは不可能ですが、それを機能の複合と、プランニングと、ハイテクを駆使して現代の台所を作るのが建築家の仕事であり、業界に寄生する私にも海岸の砂ひとつぶぐらいの責任があるのでしょう。
建築家の仕事と言いましたが、家づくりにあたって本来は、施主それぞれが、せめて自分の命をつなぐ場所のあり方くらいはその人の価値観で考えられるようになりたい。そういうことを食育に望みたい。
私はというと、むさくるしいキッチンのボロアパート住まい。
先立つものが無いのは言うまでもなく、どんな食生活をしたいのか、私にとっての食のために生きる家とはどんな家か、そういうことを考えあぐねて、これから先の新居の予定もなく、うだうだしている。
うだうだしながらも食と生活のことを考えときには、なるべく実際の暮らしに引き寄せて考えたいと思っている。
台所は食べてなくなると言うことがないだけに、我が家のそれをどうするのかを考えるのは重要なことだと思うのです。
『台所の一万年―食べる営みの歴史と未来』
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