これは、全国の自治体や農業法人のブースが設置され、就農や就職、農業一般の相談に当たるほか、新規就農経験者との面談や、セミナーに参加できる催しである。もちろん無料だ。
10時半にオープンした会場へ着いたときには11時だったが、すでに大勢の人でにぎわっていた。そして意外に多様な人種が居ることにまず驚いた。
若いのは高校を出たてような人から、いわゆる団塊の世代といわれる辺りの年齢層の人。自分と同年代のおっさんどもはもちろん、リクルートスーツの女子大生風などもちらほら。
やっぱり流行なのかなぁ。
到着してすぐ、最初のセミナーの時間となり、新規就農経験者と就農センター担当官とのディスカッションを拝聴することになった。
農業をやることの良さ、おもしろさとともに、それとは切り離すことができない経営の厳しさと、気象天候には勝てない現実。そんな話題が披露され、本を読むだけでは実感できない農業の姿に、多少の現実感が湧いてきた。
次に、ある県のブースで話を聞いてみることにした。この県は、私がもし就農するならここがいいかなと思っている地域だ。
尋ねたのは麦作についてである。その県での麦作の動向や将来性を聞くつもりだった。というのも、私はパンも粉物も大好きで、ビールや麦飯も好きだ。もしできるならば、ムギを栽培したいと思っているからだ。
それで肝心の話だが、結局、現時点では麦での経営というのは収益的に難しいですよ。という話になってしまった。聞きたかったことを上手く聞き出すことができなかった。
私の知識の浅さから質問の仕方も悪く、相手も何をしゃべってよいのかわからなかっただろう。
麦では生活できない。まあ、その通りだろう。農林統計を見てもそれはわかる。気候、規模的にいっても、とても外国産に太刀打ちできる作目ではない。
(でも国民のカロリー摂取量の12%はムギから得ているのだから、もっと国産にこだわってもいいのではないだろうか)
話がそれるのでそのことはまた書きたい。
あと、岩手の法人ブースでも小麦のことを教えてもらった。
国産小麦の現状のことなど、いくつかのお話を聞けたが、特に印象的だったことが一つあった。
岩手県は南部小麦の産地だが、その法人ではパン用小麦について、需要家と売買契約している量の2倍の収量を見込んで作付けしているとのこと。
麦は米に比べて収量の年次変動が大きい作物である。ある程度の余剰は見込んでおくべきだろうが、2倍というのは大変なことだ。それだけコストに響くわけだし、豊作なら暴落のおそれもあるだろう。
とにかく産地としてノウハウも施設もそれなりにあるところでもこんな麦作経営なのだ。その意味では、ムギを主体にした営農など夢物語かもしれない。
では、他の作物との複合栽培ならどうか。そんな遊び半分な気持ちで思いを巡らすのもまた楽し。
古代から栽培され、食べられ、現代においても主要なカロリー源のみならず、嗜好品として日本人の食に欠かせないムギ。なのにその歴史は、コメに隠れた影の存在であった。そして影はいつの間にか外国産に取って代わってしまった。別に外国産を悪者だと言うつもりはないが、我々日本人には米だけでなく麦のDNAも流れていることを、もう少し意識してもよいのではないかと思うのだ。
フェアで、得たものは、もっと自分のしたいと思うことをよく知らなければならないという教訓であった。
私、からだ(?)で稼いでます! SAYURI式 農業のススメ。
ブログは大変にぎわっているようで、注目度が高いようです。
南北問題著しい我が県北部においてこんな動きがあると知り、なんだか勇気づけられる思いです。
次世代の地域農業を担っていく大きな力になっていってほしいと思います。
いきなり褒めちぎりました。
どうして私が、見ず知らずの方をこんなに持ち上げるのでしょうか。
それは、農業をやる人も、協力者も、そして消費者も、みなが農業を楽しげに思うようになってほしいからです。
たとえみせかけの雰囲気でもいいから、消費者が、農業の活き活きとしているのを感じられるようになってほしい。
そしてそれが自分の生活、暮らしをより楽しくすることを実感できるような農業と消費者の関係が築かれるようになってほしい。
そんな期待と未来をこの方のブログに感じました。
様々な補助金や制度を経て、我々の税は農業を間接的に支援している。
言い換えれば、我々も農業者の一部。
もはや国内農業も、国産食料も打ち捨てろという意見はあってもよいが、もしそうでないなら、時代遅れの斜陽産業などと罵りるよりも、積極的に関心をもち、自分たちの農と食を考えてみてはどうか。
と、自戒のために偉そうに書いておく。
戦後の建築物としては初めて、国の重要文化財に指定された。
この動きを受けて催されたある講演会を聞くために、先週末、京都へ出かけた。
講演は、建築家・建築史家である藤森照信氏によるもので、世界平和記念聖堂が建設されたころの建築界のようすや、作家としての村野がやろうとしたこと。という内容だったと思う。
まあ、建築の話は、それはそれとして、面白く聞くことができたが、それを浅はかな知識で解説したいのではない。
建築の話を聞きながら考えていた食のことを、メモとして書いておきたいと思う。
食のこととは、終戦から現代にかけて大きく変化した、我々の食への意識と、村野が建築に込めた美意識との間には、どんなつながりがあるだろか。ということである。
とりあえず、村野の美意識、建築への態度を浮かび上がらせるために、よい対照となるのが丹下健三だ。
おそらく意図があってのことだと思うが、丹下による広島平和記念資料館もまた、村野と同時に重要文化財に指定された。
これら二作品は、昭和29〜30にかけ、続けて竣工したものである。
両建築はともに、伝統の様式を重んじる歴史主義建築から脱却し、機能合理主義に立った、いわゆるモダニズムの建築らしい。
遠目にみた感じは、双方とも、その合理性に基づいた設計がもたらす、スマートな雰囲気を醸していて、なるほどモダンなデザインだと思えるが、細部においてはどうも目指すものが違うようだ。
村野は、近代建築という土壌に立った上で、あくまで人の手触りや、手仕事の跡を残す。その場にうごめく人間や、置かれる物達がいかに演出され、包まれ、表現するかを仕掛ける。上手く言えないが、原始的な意味での人間らしさを作ったのではないか。
逆に丹下は、モダニズム一直線というか、テクノロジー、機能美としての建築の極みを表現しようとした。
彼の作品は、ヒトという存在が、建物の添え物にさえなりかねない力強さを持っている。
講演のなかで、丹下が、自分のスタッフに(自分は設計できないから)インテリアのことは村野を見てこい。と言った逸話が紹介されたが、インテリアという、直にヒトと接する部分について関心が薄かったというのは、丹下の建築への態度がよく現れた特徴ではないだろうか。
建築を設計する態度に、人間性というものが、どんな形で織り込まれていくのかということを見た。そうすると丹下はまったく人間性に乏しい建築家に見えるかも知れない。でも、それは違うと思う。
村野の美意識が、血の気の通った建築の表現だとすれば、文字通り、それは人間性があると言っても異論は無いと思う。
と同時に、丹下の技術信仰的態度も、十分に人間性にあふれた物だといえる。なぜなら、建築に限らず、ヒトはヒトの限界や想像を超えるテクノロジーに絶えずあこがれる。手にしようと努力するから。
ずいぶんまわりくどくなったが、ここで食文化とつながった。
食べ物とは、最も極端に言って、生き物のエネルギー、つまりエサである。
しかし、人はそこに、自然ぽさや、感謝の念、顔の見える関係や、汗水垂らして・・、という血の通った人間としての美徳を求め、それがまた、生きがいともなる。
一方で、バイオテクノロジーを駆使し、自然を制御し、工業製品のように食糧を生み出す技術へのあこがれも捨てることができない。効率的に栄養を摂取するという意味での「食餌」への関心も高い。健康食品の試験体にも進んでなろうとする。
原理的、本能的に、この両極端な性質を内面に持ち合わせているのが人間だろう。
どちらに善悪があるわけではないが、そのバランスをとる努力が、進歩を生み出すのだと思う。
ただ、戦後しばらくは、どうも丹下サイドに進みすぎたのではないか。
そろそろ、もう一方の人らしさを見直してはどうだろう。
うまくメシを食えるようになれば、自ずとそうなる気がするが・・・。
こちらから↓
海外日本食レストラン認証について
基本的にバカバカしいなあ、と思っているのですが、それでも世の中には色々考える人がいる。
以前紹介した『食がわかれば世界経済がわかる』(榊原英資)の中に、
著者が服部幸應氏のコメントを添えて、このように書いている。少し長いですが引用。
日本食ブームは民間で自然発生したものですが、その陰で問題も起きています。
寿司屋とか日本料理屋があちこちの都市にできているのですが、そこにはちゃんとした日本の料理人が入っていないことがしばしばあります。韓国人や中国人が店を出して、ジャパニーズ・フードと称し、ちゃんとした日本の調理師の資格を持たず、生魚など、鮮度が重要な素材の扱い方もよくわかっていない人たちが調理しています。
先日も、服部栄養専門学校の服部幸應さんが、「いやあ、あれは問題ですよ」と言っていました。
おそらく、そうしたいい加減な日本料理店へ行って生の魚を食べて、鮮度が悪くてまずいと感じたり、お腹を壊したりという人が出てくるでしょうから、ブームになったことがかえって日本料理の評判を下げてしまいかねません。
「これはまずいですよ。きちんとした日本料理を教えなければいけない」と心配されていました。
オレみたく目の利かない愚民どもは、平気で腐ったものを食いやがるから、これは是非とも食育せねばなるまい。
と、言ったかどうかは知らないけれど、まあ、大きなお世話である。
食中毒は日本食の問題ではなく、料理人と、客の問題だ。そんな店なら、中華でもフレンチでも事故は起きるだろう。
だいたい、地産地消の精神で、四季折々の新鮮な幸を使った、”ちゃんとした”日本料理を、異国の地でつくることはできるのだろうか。
昆布の良いのがないから日本から運び、鮮魚は締めの技術が悪いから、冷凍を日本から空輸で。野菜は、うつわは・・・。などとやるのは、正しい日本料理(料理屋料理)なのだろうか。
そんな環境だからこそ、海外の料理人達は、普通に手に入る材料と道具で、日本食からインスピレーションを得た、彼らなりのジャパニーズ・フードを作っているのではないのか。
馬鹿だから、日本食の食材の扱いが分からないのではないだろう。
馬鹿だから、客は、だまされて偽の日本食を食わされているのではないだろう。
私が、もし海外旅行に行ったなら、ちゃんとした日本料理に近いレストランではなく、原型もとどめないほど地元に馴染んだジャパニーズフードレストランに行ってみたい。
近代社会では、女性が外で働き、衣食住が社会で専門化されるような外部化が良いことであるとされてきた。しかし、近代社会のトンネルの先のポストモダンの衣食住の理想は、再び「自分でやる」ことであり、自己能力の復権となるであろう。ひとたび外部化したわれわれの生活の基本的部分である食をどう取り戻すことができるか。それまで、食がどのような文化として存在するのだろうか。
なるほど、衣・住は、その生産が外部化されることで、個人や地域単位による生産とは比較にならない技術的な進歩を見せ、我々はそこから生み出される恩恵を受けられるようになった。
しかし、食はどうだろう。
暮らしが豊かになるにつれ、我々は安・便・簡な食を求め、社会がそれに応じ、食の外部化は進んできた。だが、果たしてそれが、われわれにどんな恩恵を与えたというのだろう。むしろ食経験の社会による代行が、食行動の安全性や適切性を検出する個人の能力の低下を招き、いわゆる危険情報に政府までが迎合(たとえば、BSE騒動に応じた肉牛の登録制度の無意味な2重化)するような、世の中になってしまってはいないか。
安く便利簡単を求めるのは人の本能のようなもので、間違いではない。
ただ、その追求の先にある(のかどうかは知らないが)、あるべき、求めるべき食の姿とは何かを、誰もが、それぞれの胃袋で想い描かない世の中に、食文化などというものが、果たして生まれるのだろうか。
食育基本法にも謳われる、「食に関する適切な判断力を養」うことを政府自らが放棄している(前述の肉牛登録制度)社会である。我々が求めるべき、あるべき食の姿は、やはり、自らが悩む中で模索していくものだろう。食育任せの、それこそ代行、外部化で獲得できるものではない。
また、市場経済にとって正しいことが食にとっても決して正しいわけではない。
住の一部である日用雑器、すなわち工芸品が、手工から利を目的とする資本主義による生産にとってかわるなかで、その美と用が失われることになった。と、かつて柳宗悦が指摘した(『工藝の道』昭3)ように、進歩のなかにも美を問うていく態度を、食においても忘れてはならない。
老人扶養は、かつて家族に求められた機能でしたが、年金や介護保険などの整備によって、原則的に社会の負担するものとなりました。
子を産み育てることは、現在でも家族の果たすべき機能です。
生殖行為としての子育ては確かに家族のものですが、しつけや教育についてはグレーな部分です。
教育は、受けさせる義務があるだけで、家族が教育することは求められていません。どちらかといえば社会の負担と考えられていて、それは学力の低下への批判が、教育の現場に向けられていることに現れています。
一方、しつけは、家庭で行われるものと考えられています。行儀の悪い子供に、「どこの学校へ行ってるんだ」とは叱りません。
家族における規範と考えられていることは、政治的な決定に沿って変化し続けています。政治的な決定は国民の総意でもあります。
しつけは家庭のものとはいいましたが、最近、食育と称して、この規範を改め、社会へ負担させる制度が始まりました。 箸の上げ下ろしまで社会が面倒を見てやろうというわけです。
老人介護の負担が軽くなったことは、多くの人にとってありがたいことだったと思います。 しかし、食育がしつけの一つだとして、その負担を社会が負担することが、家族にとって良いことなのかどうかは、いまは各家庭の判断に任せるしかありません。
食育は大事か、といえば大事なことです。 しかし、それを政治的に制度化することは、食育というしつけを家族の機能から奪っていくことです。 しつけは家庭のものだ、という規範に照らせば、これはまったく矛盾した方向へ向いているのです。
政府お墨付きで「食育が大事」と活動される先生方は、この点に留意されたいと思います。
しつけの社会制度化が、時代の流れならば、それも構わないと思います。
しかし、各家庭で行われるからこそ、そこに多様性があり、均質ではない、人と世の中があるのではないかと思う。
江戸時代までみられた葬送や埋葬のしきたり、相続や家族形態の土着伝統的な多様性は、政治的な整備によって切り捨てられていった。
食の文化もまた、食育教育によって、政治的に均質化されはしないだろうか。 食べられていなかったものを食べていたように教え、食べられていたものが逆に無視され、都合のよい幻の食文化が政治的につくられてはいないだろうか。
人々の多様な暮らしと生きがいのなかに、食だけが、ある理想的な姿で浸透することはあり得ない。理想的な食事、理想的な暮らし、理想の家族、理想の未来。すべてが揺らぎ迷走する社会で、政治的に食文化が語られることにどれほどの意味があるのか。と思うのです。
理想の暮らしをかなえる、理想の食文化を自分で考えていける。そんなふうになりたい。
(参考文献)迷走する家族―戦後家族モデルの形成と解体 (単行本)
山田 昌弘 (著)
詳しい事情を直接聞くことはできませんが、食べては吐き戻すことが常習化していたようです。
過食症は、専門的には神経性大食症といい、排出型と非排出型の2つの病型に分けられのですが、彼女の場合は、排出型に当てはめられるようです。
現在は通常の生活を送っているので、ひとまず安心ですが、
当時は、育ての親でさえ、どうしてこんな事になるのかと戸惑い悩んだというのですから、ましてや他人の私が簡単にわかることではありません。何も言えず(言う立場でもありませんが)、理解や、救いもできないというのは、周りにとってもつらいことです。
多くの人にとって楽しみである食に対して、障害を感じる気持ちは、経験した本人にしか分からないことかも知れません。
しかし、今の世の中、いつ家族、友人、そして自分が、摂食障害をはじめ、どんな心の病を抱えることになるか分かりません。
万が一のとき、せめて異常のサインぐらいは感じてやれるように、ちょっとした知識として、そういう本を読んでみる。食べないこと、食べられないことから、食べることを考えても、まあ、おもしろい。
さて、摂食障害の原因については、多くの書籍や、ネットでもいろいろと調べることができますが、
その中でよく登場するのが、過去の出来事を起因とする説です。
家族機能の障害や、養育環境の不備。乳幼児期の親からの愛情不足、思春期・青年期における外傷経験そして、ソーシャルスキルの不足など、様々ですが、
これらはすべて、患者の過去や、これまでの成長過程に原因を求めるものです。
ほかにも、女性は、外見的に魅力的な存在でなければならないというジェンダー圧力によるダイエット起因説もよくみられます。
これらは、なかば定番化しつつあるようですが、ただ、これですべての患者の行動を説明できるかといえば、そうではないでしょう。
ガンを手術で摘出するように、摂食障害を、過去の出来事や、社会の圧力を克服することで治療できると考えるのは、すこし無理があるかもしれません。
過去は変えることができないし、社会は患者ひとりの力で変わるものではありません。にもかかわらずその部分に解決を見いだそうとしたところで、結局はどうにもならない絶望感が待っているだけではないでしょうか。
先日紹介した本の中で、志和資朗さんが摂食障害の治療について、違ったアプローチの仕方を書いています。
摂食障害は、患者にとって「目的」になっているという見方です。
未来に向けて何かを変えようとする目的のために、その症状が現れている(使われている)というのです。
未来へ目を向けることは、過去にとらわれたり、現状を嘆くよりもずっとポジティブな生き方でしょう。
変えたいものがなんであれ、その達成に向けて、摂食障害の症状を用いる必要はなく、もっと適切で建設的な対処法があり、その実践が大切であることを学ぶことができれば、
もしかしたら、回復へと向かうこともあるかもしれません。
どうしてそうするのか、ではなく、どうしようとしているのかを、周囲が感じ取って、理解してやることも大事なのかもしれません。
と、あてずっぽうに、あくまで無責任に言い放っておやすみなさい。
過去の経験をかえりみても、食の乱れは情報や教育の量や質の問題で解決できることではないようです。
農水省は2001年にこう発表しています。
「健康を維持するために食生活を工夫していこうという意識が低下しつつある。」
健康ブームといわれてかなり久しくなります。
情報はあふれるほど提供されているし、われわれはずいぶんと賢くなった。
だけど、その情報や知識は活かされていない。
80年代に騒がれたサルの奇形児や背骨の曲がった養殖ハマチから一体何を教訓にしてきたのだろう。
今もって「意識が低下しつつある」のです。
私たちは往々にして目先の便利さに流され、食生活は乱れるままにまかせ、
未だに自らの態度に反省の目を向けようとはしていない。
なにもかも「しかたがない」「ほかにすることがある」とのんのんと。
つまりわれわれは”知っていても”行動しないのです。
『食糧―何が起きているか』
朝日新聞経済部 1983-01
から一部分を引きます。
20年以上経ってもどうやら最初の一歩から進んでいないようです、何のために足を上げたのか忘れてしまったのでしょうか。われわれの食生活の中身をあらい、失われつつある伝統食の知恵を今の素材、食卓にどう取り戻し、調和させるか。そんな試行錯誤は、食生活改革への小さな一歩に過ぎないかもしれない。が、この一歩が日本人の健康を保つ上でどうしても必要なのである。そして、この一歩を踏み出し始めた人たちやグループが各地で確実にふえている。
非@食べ歩きとしては、くちだけ番長かよ。なんて笑われたくないですが、
ま、それを実践していく取り組みを考えるのが(逃げすぎ!)このブログの目的だから。
と適当にお茶を濁して、はいおやすみなさい。
『日本の食と農 危機の本質』
神門 善久 著
より、「社会保険料の食生活連動制」という提言を勝手にまとめようと思います。
「社会保険料の食生活連動制」は、食育などでいくら情報を提供しても、食生活の改善は期待できない(後述)という観点から設計されています。
この制度は食生活の改善を促すプログラムを、あくまで消費者にメリットのある形で提供します。その効果は大変大きいと考えられます。
その仕組みはまず、社会保険料(介護保険を含む)に食生活を連動させます。
そして、自治体ごとに、連動用の予算枠を設け、食生活のよい家庭の保険料の全部ないし一部を肩代わりします。
場合によっては、全額以上、つまり報奨金を払います。
この時点で消費者に大きなメリットが生まれます。
この制度の目的は、食生活が良ければ健康を害するおそれが減り、またそれは将来世代への恩恵になるという発想に適っているのです。
実現への課題は著者もいくつかあげていますが、実現すれば非常におもしろく強力な効果が期待できそうです。
正確にはかつて流行ったという言うべきで、最近お目にかかる機会がめっきりとなくなりました。ポルノっぽいフードの広告、簡単にいえば、女性の身体を食べ物になぞらえて描くようなCMの事です。
細かいことは忘れましたが、水着風の若い女性がイチゴを薦めるCMが最近まであったような気がします。あれはイチゴのみずみずしさや、甘みを女性の身体で表現しようとした。あるいは直接に「食べちゃいたい」を表現したのかもしれません。どっちにせよゲスな表現には変わりなく、最近見かけないのは「性の商品化」として抹殺されたからでしょう。
こういった表現は地方CMにありがちな印象ですが、実は80年代には日清や月桂冠といった一流企業でも用いられていました。(食とジェンダー)
そこから想像するのは、当時、男に向けて食をアピール(上記2社はカップラーメンとパック酒のCM)する手法として、性と食を重ね合わせて表現することが有効と考えられていたということです。
今の(私の)感覚でいえば、食欲と性欲が同席することはほとんどあり得ないのだけど(同席するときは必ずどちらかがオマケである)、食を「生活」ではなく”食通プレイ”として捉えてきた男たちにとって、食と性の欲望は境界があいまいで、それは日常茶飯事ではなく、あくまで特別なお楽しみだったのかもしれない。そこをこちょこちょと刺激されるとやたらその食い物が旨そうに見えたというのでしょうか。
”食通プレイ”とは遠藤哲夫さんの言葉ですが、性のプレイが表向きには秘匿すべきと考えるように、いまだに食もプレイとして、日常の裏側にあって普段は考えちゃイカンものと思ってるヒト、いませんか。
うん、なんとなく分かる。メディアに登場する「スリムで美しい女性」なんかを指標にしたら誰も満足できませんね。ほかにも色々な角度で庫摂食障害とジェンダーについて述べられていますが、ブログの趣旨から外れそうなので興味のある方はどうぞ書籍で。
で、メディアのでっち上げは、摂食障害だけじゃなくて、われわれの普段の食事にも影響しているんじゃないでしょうか。ということを今日は書きたかった。
番組のネタをつくり出すために「おいしいもの」をでっちあげる。それを食ってこそグルメだと煽る。一度は食べたいあの名店の何々とか・・・。
もちろん、食い物を作るのも紹介するのも商売だから売れるように努力するのはエライ。だけど、庶民が日常の食費を節約して外食費を捻出するとか、どうせ外の味には近づけないから家ではまともに料理しないポリシーとか、なんかもう有名店、高級店が上等の食事で、家の飯は下等なエサとでも見下す風潮がおかしくなくなってるんじゃないかと思うのです。人の趣味嗜好のことに口出す必要はない。確かにそう。だけど食事というのは、人が夜に寝るのと同じで、社会の時間的なリズムを作っている大事な行為なんだと思う。それをいい加減にしてもいいっていう空気が充満して、効率・時短食が幅をきかせると、普通に普通の飯を食いたい私にとってはえらく迷惑な話なのです。


