涌井 徹
『夢の百姓―「正しい野菜づくり」で大儲けした男』
横森 正樹
日本の農業が衰退してしまった原因を考えると、ひとつに、農家の経営意識に潜む問題というものが浮かんでくる。
作れば国が買い取ってくれる。農協が販売してくれるという仕組みが、
販売のことは他人任せ、作ってしまえば後は知らないという経営意識を、農家に蔓延させてしまったのではないだろうか。
もちろんそういった仕組みは、食糧難時下において食料の均等な配分を司ったり、高度成長期に他産業との所得格差を防止したり、また農作物の安定した流通を実現したりと、農業と国民にとって、必ずしも悪いことばかりではなかった。
だが結果として、そうやって麻痺させられた経営感覚が、日本農業を補助金なしでは経営が成り立たないような、あるいは、食べ物の多くを輸入に頼ることもやむなしと言わしめるような弱い産業にしてしまったのは事実ではないだろうか。
ただ、そんな状況にあっても、それでも中には、経営として農業を成り立たせ、他産業に負けない収益を上げている企業や生産者がある。
この2冊は、農業を儲かるビジネスとして育てあげた著者らが、その仕事と理念、目標などを、自身の半生を織りまぜて著したものである。
農業とは農作物を作ること。そんな認識がまだ一般的ではないだろうか。
我々消費者のみならず、農家でさえもそのように考える人も多いのかもしれない。
だが、他産業がそうであるように、売ることを考えないで商品が生産されることなど、本来はあり得ない。従って農業もいかに売るかを考えた経営をするのが当然である。
両著には、片や高付加価値の追求、片やいかに安く売るか、とそのアプローチや理念に違いが見られる。
しかし、売れる農業を目指し、それによって農業を持続可能な産業として成り立たせたいという熱意は共通したものがあり、強く共感を覚えるものである。
自分が農業をやるならば、この人たちのような理想を持って挑みたいものである。
生源寺 眞一
食の安全や安心や、WTO/FTAの自由貿易圧力の強まりなど、食料と農業に関する話題に事欠かないこのごろである。
この本はそれらの問題を様々な角度から読み解き、考える切り口を丁寧に解説したものである。
著者曰く、日々氾濫する情報を整理し、無駄を廃棄し、日本の食料と農業の問題を見通しよく考えるための、「情報の整頓箱」の提供が本書のねらいなのである。
■次代の農村ビジョンを持つこと
相変わらず転職就農を模索(先送り?)していくなかで考えるのは、「なぜ農業なのか?」ということである。
農業を目指す理由が、たんなる田舎暮らしや、土と緑に囲まれた牧歌的悠々自適生活にあこがれるから、というのでは、金持ちの定年退職者ならともかく、それで飯を食っていこうと考える者にとっては、ほとんど実現性がないといって言えるだろう。
いわば、社長になれば好き勝手にできるからと会社を辞めるのとほとんど同じである。
そんな夢物語をまず否定するところから出発して、今なお自分の中にある農業へのあこがれ。この気持ちは一体なんだろうか。それを言葉にすることが「なぜ?」への答えになるのではないだろうか。
その答えを探す読書の中で、この本から得たのが、"次代の農村ビジョン”というテーマである。
日本の農村政策は、次世代の農業と農村を形づくる大きな方向性のなかで、現在、その中身を二つの大きな要素に区別している。
一つは、思い切って替えるべき要素。もう一方は将来に向けてしっかり守り抜くべき要素の二つである。
変えるべき要素とは、市場原理活用の強調を軸とし、株式会社参入、価格制度見直し、産地作り対策など、農産物市場にたいする政府の過剰な介入を控える方向への転換により、攻めの農業を育てることである。
また、消費者のニーズに敏感で、なおかつその手応えを糧として農業経営を行う者をしっかり支えることにより、結果的に自給率を上昇させようという狙いもある。
後者の守り抜くべき要素とは、農業の多面的機能と呼ばれるものが将来にわたって機能し続けることである。
このように書くと堅苦しいが、要するに、農業と一体となった自然環境の保全と、それらが見せる良好な景観の保護。
また、農業を支える水資源や環境を、農村の住民自ら保全することなどで成り立っている地域社会の維持と活性化。
あるいは農業生産と農村生活をめぐる教えや技、それが育んできた地方色豊かな文化の伝承などである。
それらが、農業の多面的機能として、国民の共有財産の認識のもとで守っていこうというのである。
変えるべき要素によって、市場原理の積極的な導入をもたらすことと、農業の多面的機能を守ることは実は相反する部分がある。
今、日豪EPA/FTAによる日本農業へのダメージが懸念されている。
日本農業へのダメージとはすなわち、これたもたらす多面的機能が失われることである。
しかし、国内においてニーズを重視した攻めの農業を強調するかたわらら、貿易に制限を加え続けることは、不自然なこととも言える。
もちろん相手の力量に桁違いの差があれば、政治的努力によってある程度の保護をかけることは必要だが、それも国内農業の改革によって力をつけ、段階的に解除されていくことが求められるだろう。
日本において農業が力をつけるとはどういうことだろうか。
経営規模、効率においては逆立ちしても大陸農業にかなうことはあり得ない。
自ずとコスト削減において国際競争力を持つことには限界がある。
では、なにをもって農業が継続されていくか。それが多面的機能である。
その価値を国民が共有の財産としての認識をもつことで、農業・農村が継続されていく。
それが納税による間接的な農村保護なのか、国産品購買意志による直接的な支援なのか、どういう形をとっていくのかはわからない。わからないが、水は低きに流れるという。金のかからない方に気持ちが動いていくことは止められないだろう。つまり輸入は増大するだろうということだ。
そのながれがとことんまで進んだとき、日本の風景がどう変わってしまっているか、これは何となく想像できるだろう。それをどう判断するかは国民に委ねられている。
私は、できることなら将来も、農村があって農業があって、地方色が豊かな文化があって、山紫水明、山海の幸にあふれる日本であってほしいと思う。グローバル化は避けられない流れだとしても、そのなかで価格を超えた快さを提供できるような、国内農業・農村が次代の農村のビジョンである。
私はそれを担っていく一員になりたい。とどこかで感じているようだ。
藤岡 幹恭 小泉 貞彦
以前にも紹介した藤岡 幹恭・小泉 貞彦両氏による農業本である。
前著と同じく、農業と食料にまつわるトピックが多岐に渡ってつづられている。なかでも、一般に部外者にはわかりにくい、農業、食料の政策についての解説は、私のような初学者にも、大変わかりやすいものである。
取り上げられるどの話題も大変興味深いものだが、なかでも私は、日本の農業の現在と世界の情勢、これからの日本農業のありかたを述べた部分を重点的に読み進めた。
特に、日本の農業が価格競争において世界に敗北していくわけと、それを簡単に克服できない足かせの構造については是非とも知っておきたいことである。
政策、農家、消費者とそれぞれに思惑があり、それらが複雑に絡み合った結果としての、零細農による敗北である。
我々、消費者の立場としては、遺伝子組み換え作物や、農薬等、農業の効率化に寄与する技術を、闇雲に拒否するのではなく、そのメリットも考慮するべきである。
それらを推進する政策を評価したり、日々の購買面でも、無知からの拒絶を反省してみる態度が必要ではないだろうか。
最近の私の読書テーマは、私が農業をやるなら、どんな農業をどんな風にやりたいか、を煮詰めていくことである。
実際の農作業や、技術を習得することが農家としての大原則であるには違いない。しかし、そんなミクロ世界の視野だけでは、これからの農業は立ち行かないだろう。
このさき高齢化とともに消えていく日本農業ではあまりにも寂しい。
できるだけ多くの人が自分の食と農に関心をもって、関わり、農業が身近に感じられる社会になってほしい。そして、私はそれを行動で示せるような人生を目指したい。 さて、どうしたもんかな・・・
伏木 亨・山極 寿一・サントリー次世代研究所
「食の崩壊」が叫ばれて何十年経ったのかしらないが、新しい日本の食文化は、今の子供たちにも脈々と受け継がれているようだ。
食の崩壊をいくら叫ぼうとも、それが自身の問題であると認識されない限り何の改善も起こらないのは当然である。
事実、心の病の場合を除いて、この飽食の社会では、何を食べていても、空腹が満たされる限り、「食の崩壊」が原因で死んでしまうようなことはほとんどないにちがいない。
おいしいと思うものばかり食べて、好きな時間に好きなメンバー、あるいは一人で食べる。
デントー的な味や料理など知らなくても十分に食欲は満たされるし、知らなくて誰に迷惑をかけるわけでもない。
こんな状況でだれが、「私の食の崩壊」をなんとかしなければと思うのだろうか。
そもそも、現状の満足をあえて疑い、"崩壊"の崩壊を試みる価値は一体どこにあるというのだろう。
なんて・・、まあ、誰もこんなくだらないことを考えて崩食時代を謳歌してる訳じゃないだろう。
しかし、この「食の崩壊」と言われる状況の背景には、現代の我々の食に内在する様々な課題の存在。それに気づいていないという不幸があるのではないか。そんな課題をいろいろ取り上げ、議論してみようと言うのが本書の狙いである。
本書はまず、栄養科学者・伏木亨、霊長類学、人類学者・山極寿一によって「食の現代的課題」が提示される。
その上で、食にまつわる各界10名のゲストによる小論と、それをベースにした伏木、山極氏との鼎談によって、問題を議論していこうという構成である。
食育の意味や、食文化の継承、食糧自給率、などが取り上げられるが、中でも私が強く関心を持ったのは、食を介した人間関係についてであった。
これについては、ゲスト、鷲田清一氏の小論が面白かった。
少し引用する。
(私たちは)生き物としての「食える・食えない」ではない次元で解釈を入れて、自己と他者の境界にあるものをタブーにしたり、あるいは、「旨い・まずい」という基準で、まずいものは栄養があっても食べられないという新しい秩序に移行している。
食べることは命をつなぐ一番基本的なことだから、生理にベースがあることは間違いないんだけれども、その生理の次元での規則とは違う規則で作り変えたから、壊れやすいんですね。ものすごく、深いショックを受けたときに失語症に陥るのと同じ。すごく不安定なもので、何かショッキングなことがあったら、食べられなくなったり、食自体を否定したり、絶えず何かを食べていたり、あるいはものすごく早食いになったりする。
(略)
そこで、「共食」(きょうしょく)という、決まった時間にみんなで食べる形で、食事をリチュアル(儀礼)にしてしまって、決まった時間に食べる習慣をつくらないといけない。好きなときに食べていると食の構造・秩序は壊れてしまうから、リチュアル化して設定したのではないかと思う。食欲がなくても、この時間になったら一緒に食べましょうと。
私たちは、飢え、という生理現象に従って食べている。しかし食物ならなんでも食べるわけではない。なにかを「食える・食えない」というとき、それはその生理的理由により制限しているのではなく、実はその人の属する文化によって形成されたある秩序に従って、食べるものを制限している。
つまり、人の食は、動物的な生理に基づく行為であることは間違いでないにせよ、その生理とは次元の違う規則でつくり変えられた、壊れやすい、異常を起こしやすい行為になってしまっているということだ。
だから、「共食」によって食事を儀礼化することには、食の"たが"を外さないために大切なことではないだろうか。と論じている。
私は、「食の崩壊」はまず、父親の食事不参加が元凶だと思っている。
不参加の理由は色々あるだろうが、大方は仕事でいないからだろう。
結論から言って、これは解決不可能の問題であるが、せめて自分だけはそうならないようになれればと思っている。仕事の方を食環境に合わせようという気持ちでいる。
まあ、そんな思いもあって、農業で自立できないかな。なんて毎日妄想しているのですが。
10名のゲスト一覧
石毛直道
熊倉功夫
中東久雄
鷲田清一
大平健
中村靖彦
八田逸三
江原絢子
服部幸應
坂本廣子
藤岡 幹恭・小泉 貞彦
以前紹介した、『農業に転職する―失敗しない体験的「実践マニュアル」』のなかで、著者推薦の農業本に挙げられていたので、試しに読んでみた。
著者のひとり、藤岡幹恭氏はジャーナリスト。
小泉貞彦氏も同じくジャーナリストである。
ふたりは1990年より、ほぼ5年間隔で、農業界の動きをまとめた著書を出しているが、この本はその2冊目で、1995年の刊行である。
雑学とは銘打っているが、決してへぇ〜ではすまない、日本の農業にとって重要な農政農経関連の話題を多くとりあげ、具体的かつ丁寧に解説されている。
しかし本音を言えば、やや難解な箇所も多少あった。最初から全部すんなり理解できるとはいえない。ただそれは、私の農業への無知、これまでの無関心さが原因だろう。
すこし難しい、でもまあ、じっくり読めばなんとなくは分かってくるように書いてある。
もともと農経農政など、初めから専門書を読んだところで理解不能に違いない。その意味で農業の基本から知りたい人には、有坪氏と同じく、私もおすすめしたい一冊である。
近頃、食べることや、食の文化に触れる書物に触れていない。自分でもやや退屈気味に感じているところだ。
しかし、今後も農業の事を考えていくにあたり、戦後農政から現代にいたる流れを大きくつかみ、それを将来を見通す材料にすることは大事なことだろう。
神山 安雄
今月も飽きずに就農本を読み漁っている。
この本は、これまで読んできた中で最もガイドブック的要素が強い。
内容は、法的な手続きや、資金の調達、借金の仕方。農地の取得から住居探しなど、新規就農にかかわる制度や手続きを全般的に網羅したものとなっている。
また、就農の一つのパターンとして、農業法人への就職についても触れ、その仕組みや求められている人材、就業についての注意事項などについても述べられている。
特に就農を目的にしない場合でも、農協の事や、農家の仕組み。あるいは農業政策や、農業の世界界を学ぶテキストになるだろう。
就農についてテクニカルな部分では、営農計画の立て方についても解説があるが、この点では以前紹介した有坪氏の『農業に転職する―失敗しない体験的「実践マニュアル」』の方がより具体的である。
ちなみに「あなたにもできる」と題にあるのは、なにか就農の秘訣をこっそり教えますよ。といった暗示ではなく、法制度上、だれでも農家になることは「可能」ですよ。という程度の意味だと思って読むといいだろう。
黒沢 隆次
先日紹介したものと同様の就農マニュアル本。
その有坪民雄氏の著書に比べると、ややテクニカルな内容は少なく感じる。しかし、中高年や団塊世代の就農という現象につきまとう、ある種の趣味的、自己満足的な匂いはなく、手始めに読む本としては色々と勉強になる。
勉強になるとはいうが、分かってくるのは、生やさしい世界じゃないし、軍資金もたくさんいるとうこと。
夢はふくらむが、いや、これはなかなか厳しいですぞ。
また、農業経営を立派にやりながら、書物も書けるような秀才たちと自分との格差を考えると複雑な気分にもさせされる。
ともあれ、中高年といわず、就農になにかしら関心のある方は、一読されてみてはいかがか。
有坪 民雄
以前このブログで紹介した、 『イラスト図解 農業のしくみ』の著者による就農マニュアルである。
『イラスト図解〜』は、現代農業の主要なトピックがコンパクトにまとめられた良書だった。
その中でも、就農についていくらかページが割かれていたが、本書はその点をより深く解説したものである。
内容は、就農そして農業で食っていけることを目標とし、その実現を果たすための具体的なマニュアルとなるよう意図されて書かれている。
具体的には、就農時営農計画書のフォーマットや就農アドバイザーとの交渉の進め方、経営計画の立て方や農地取得の段取り等のほか、いかに作物を売り収入を得ていくのかなど、経営コンサルティング業を経てきた著者ならではといえる実践的な記述が豊富である。
また、農村での人間関係の構築方法や、農機具販売業者とのつきあい方など、農家としての経験をもとに語られる様々なノウハウも書かれている。
これらは、農業で生きることにとって重要な要素であると想像できるが、公的な就農支援機関からは得られにくい情報であろう。
「新規就農希望者が、どのような努力をすればよいか知らない」
と著者が語るように、私のように夢を持つだけで、目標を定めず、努力の仕方も分からない者にとってとても役立つ本だ。
ただし、リアルな情報だけに役立ちもするが、同時に現実を直視させられ、おじけづかされたのも事実だ。
本書のようにできれば、成功の確率を高めることは可能かもしれない、という気分になるが、それはまた、最低これくらいの事は実行できなければやっていかれない。という警告のメッセージとも受け取れる。
夢やあこがれは動機として結構だが、それだけで食っていけるほど農業が生やさしい営みでないことをあらためて思い知った。
自分への問いかけと、軍資金がどうやらまだまだ必要らしい。
大森 森介
農業で生きるとは、どういうことか。ということをテーマに、少しずつ本を読み始めている。
労働の主体性を獲得するにはどうすればよいのか。ということを、私はときどき考えるが、食べることが好きな性分のせいか、今は農業にその実現を夢見ている。(夢は目標とは違うのだが)
最初のテーマを具体的に言い換えるならば、
農業によって、労働の主体性を獲得するとは、どのように働くことか。
ということ。
どんな時間配分で、どんな暮らしをしたいか。または得られる収入の範囲でどんな生活が可能なのか。
単に賃金の多寡で計ることのできない、暮らしの充実感や自分なりの幸せをデザインすること。
労働に主体性があるとは、そのデザインを自ら描き、実現可能な設計図に起こすということだろう。
私は農業に甘いあこがれを思い描いてはいるが、それは、農業がゆったりぐらしを実現させると考えているからではない。
本のタイトルに"ゆったり"とは謳っているが、農業そのものがゆったりなのではないだろう。
本書に取り上げられている様々な「農家」の事例を見ても、やはり一事業者としての成功には、努力と情熱、ビジョンそしてアイデアがある。
漠然とした牧歌的あこがれを打ち破り、本当の農業ぐらしをデザインする方向性を定めていくための良い事例となる。
また、目標や、願望だけでは絵に描いた餅だ。現実としての農業には、体力資本だけでなく、「開業」にはまとまった資金や様々なノウハウ、法制度のクリアが必要となる。その辺りの記述も充実している。
実際に体を使わずに、頭でっかちに農業を知った気になることは戒めなければならない。しかし、有利なスタートダッシュのためにイメージトレーニングが欠かせないという意味では、就農を目指す手始めに読む本としては良くできている。
神崎 宣武
本書は、日本と、その他東アジア諸国との、食器や箸文化の違いや、日本における「うつわ」のうつりかわりを論じている。
しかし、たんなる食器史として時系列的に並べたてる退屈な物ではない。
「「何をどう食べてきたか」が食器のかたちをも定める」というスタンスから、日本の食事・食器文化の必然による成り立ちを解読していくという試みである。
たとえば、磁器製茶碗の普及史を論じては、日本人の主食は米のご飯ではない。という史実から、雑穀や畑作物の混ぜ飯、つまり”かて飯”の存在をクローズアップさせている。
米のご飯とは違い、かて飯はぽろぽろして食べにくいものである。
そうなれば口を器につけ、かきこみ食べる食事作法が生まれるだろう。
我々の飯茶碗、すなわち持ち上げて手に馴染み、口ざわりのなめらかな食器の普及は、このような生活史と密接していると読み解かれていく。
さらに言えば、昔の飯茶碗は半球状のボウル型だったのだが、戦後は円錐を裏返したようなシャープな形に変わってきたという。
この変化は、先のかて飯を主とした食生活から、米のご飯を食べられる食生活へと変わったことと深い関係があると述べる。
米のご飯は粘りがあり、箸でつまんで食べることは難しくなく、もはや器を口に当ててかきこむ必然はない。
米をつまんで食するにおいては、深い丼型よりも、より皿に近い円錐型の茶碗の方が、底の米粒を食べやすく、茶碗の形が変わってきたのは機能的必然からと推論されるのだ。
また、つまんで食べるため、箸の先は尖っているのが都合良い。
サジを用いて飯を食べる中国や、朝鮮の人たちの用いる箸が太いこととの相違は、このような食事文化の違いから生じていると推理することが可能なのである。
これらは、本書の一部を取り上げたに過ぎないが、全体を通して考えておくべき教訓が含まれているように思える。
著者が柳田国男の言として引いているが、
とあるように、米を特別に神聖視しすぎ、日本食文化の本流であると錯覚し、もともと多様で合理的な食文化を亜流に落とし込めた、その偏屈な神経が、日本食レストランの認証制度という馬鹿げた発想につながっていくに違いない。米は日本人の主食物だということを信じて疑わない人は以前から相応にあった。さういう人たちばかりが、日本の生活問題を論じようとしたこと、それと一方には米は奢りであり、従うて米が食えるのは幸福だと思うやうな、素朴なる考へとが合体して、終始注意を此一点に集め、非常に我々の食糧問題を窮屈にしたことは事実である。
ナショナリズムが全て悪いとは言えないが、自らの文化の依って来たるところを見つめることなく、現に完成された表面的な形式に自身をはめ込み、その中での”文化”活動に満足する閉塞的状況には陥りたくはないものだ。保守的革新というのは難しいことなんだけど。
渡部 忠世
子供に「いただきます」を言わせたくない親がいるという。
なんでも、金を払って食べている物に対して、なんら意思表示の必要はない、ということらしい。
「いただきます」にどんな意味を込めるのかは、それぞれが勝手に決めれば良いと思う。だが、金銭がどうこうという次元で、「いただきます」を言いたくないとは、変わった人もいるものだ。
で、私は、変わった人だと思ったが、世間がどう思うかは分からない。
でもたぶん、世間の認識は、言うのが普通。ということだろうから、言いたくないというのは変人、ということになるだろう。
ただ、これもどうなるか分からない。言わないのが当たり前に変わっていくかも知れない。おおよそ不変の習慣や、倫理、つまり文化などないだろう。
食に対する価値観はこの数十年で大きく変化した。食べなければ死ぬという大原則は全く変わっていないのに、生きることと食べることの関係は、人の気持ちの上ではとても薄くなった。
食への関心が高くなったというのは、どこの誰のことだろうか。
現代人は、働かず食うことに遠慮もない(働けない人とは分けて考えている)。食べ残す。食べないで捨てる。ながら喰い。ついで喰い。栄養食餌。色々・・。
人により程度の差はあっても、食を軽視する態度、あるいは食に対する畏敬の念というものが、自分を含め、世間一般に希薄になっていることは間違いないだろう。
不耕貪食という言葉が、この本に出てくるが、自ら耕すことなく貪り食うことができるようになった社会とは、すなわち、金で食べ物を自由に
得ることができるようになった社会だ。
自分の金で得た食べ物だから、残しても、捨ててもいい。いいかげんに食っても、なんら気が咎めないというのでは、「いただきます」を言いたくない人と倫理的には大差がないだろう。
食べることの価値が、ただ金銭の価値に置き換わってしまっているのだ。
現代は、食物の供給を完全に他者に頼ることが可能な上に、歴史上最も貪食する時代だ。
食べ物を作る仕事、つまり農業を普段から意識することなく、それでいてなに不自由なしに食っていける。
金を出せば、いつでも、いくらでもおいしいものが出てくるという仕組みが当たり前過ぎて、目の前の米一粒、芋一本からどこかの誰かの農業を想像することは難しいし、想い描く必然も起こらない。
我々は、農業を他者に頼る仕組みを作ることで、毎日の食物を作り出す苦労から解放された。
農業から離れ、自然や土地から解放されたことで人は、自由に、よりスケールの大きな活動が可能になったのではないだろうか。
それが文明の進歩であり、我々はそこから様々な恩恵を受けていることを否定することはできない。
しかし、自ら手に土することなく、飽食を謳歌して得られる幸福がある一方で、生きること、働くことの持つ本来の幸福を、農業との離別によって我々は忘れてしまったのではないか、と私は、疑ってしまう。
でもそれは、隣の芝が青く見えるだけで、生きること、働くことの幸福に、昔も今も違いは無いのかも知れない。
だとしても・・・、それでも農業には、他にはない、何か本当の充実があるのではないかと、近頃、妄想にふけることが多くなった。
働くことはもっとも楽しいものであり、働くことはまた、もっともつらいものである。自由に働くのはもっとも楽しいが、奴隷のように働くのはもっともつらい。
したがって農業は、自分の畑を耕すならば、もっとも楽しい仕事である。仕事からその結果へ、また始めている仕事からその次の仕事へと思いは絶えず前進して行く。さらに、いつも同じ畑で働けるという保証があれば、もう儲けのほうなどどうでもよくなる。
本書より、『幸福論』アランの引用
著者は、
という。農業が資本や技術の合理性だけでは説けない、「生きがい」といった問題をかかえていることを観念的に理解していたつもりだ
そのことを、松井浄蓮という人の営農や生活の日常に親しく接することで、「正業としての農業の姿を心底から実感」したそうである。
松井浄蓮とは、終戦直後、滋賀県は坂本の山中に入り、家族と開墾生活を始めた人で、「この国のあるべき農業の姿、農業を基盤としたこの国の未来像」を掲げ、また実践したのだそうだ。
本書には、松井の書き残した多数の書き物から、「いきること、働くこと」という課題に沿って選ばれた文章が、ページを多く割いて採録されている。
著者が言うように、心底というわけにはいかないが、(現実問題としてのお金のことや、現在置かれている社会的なしがらみがある)農業に対して私が抱く、無責任なあこがれを増長させられたことは確かだ。
北大路 魯山人 著
平野 雅章 編
魯山人という人を少し、いやかなり誤解していたようだ。
美味しんぼに登場する、なんとかいうおっさんのモデルだと聞き、
はじめから庶民を馬鹿扱いにするような、偏屈オヤジだと思っていた。
さぞや恵まれた生まれで、幼きから美食し、諸芸に馴染んだ人のだろうと思っていたが、意外や、そうではなかった。
あくまで、自らの感性を満足させるものを、探し、研究し、技術を会得した結果としての美食であり、食べ歩き食通の知ったかぶりグルメとは訳が違う。
手近とは書いてあるが、彼にとってのそれは、我々庶民の手にするものとは違うだろう。だが、美食は物知りになることではない。もっともよく使われる、手近な料理の原料になる、これらのものを正当に知らなくてはならぬ。
と、決して大衆の食べ物を見下すのではなく、工夫と知恵と技術で、美食を求められることを示唆しているように思える。しかし、万人が日常食とするお総菜料理の大部分は、あきらめの料理であって気の毒である。高いものは食えない、料理の工夫は知らない、旧慣を有難いものにして、自分たちはこれでよいのだとあきらめているかである。
そのことは、納豆の茶漬けをどうしたら旨く食えるか、とか、カエルが旨いこと、などの話からもうかがい知られる。
また、
まぐろはいつ頃、どこで獲れたのは美味いとか、たいは〜中略〜とか言うようなことを知っているのが、いかにも料理の通人の如く思われている。だが、料理はそんなものではない。
と言っている。
近頃は、雑誌や、ネット、テレビによってブランドに祀り挙げられたブランド食品を、「食べ」「知っている」ことをグルメと呼ぶらしい。そこへ仲間入りしたいのか、あちこちウロウロしている人が多いという。
趣味はそれぞれで勝手にすれば良いとは思うが、そんな人たちの、ほとんど物欲と同義の食欲談義に私は興味が湧かない。もっと、普通の三食をどうやって快くできるか。それを知りたい。「普通に食べること」さえも犠牲にする、この労働をどうしたらいいのか。
今話題の店は。○がブーム。□がオシャレ。△がヘルシー。あれは危険これも心配。「魯山人が愛した」。有名人が通う隠れ家。誰々御用達。・・・ああもう、かなりどうでもいい。おいしい物とおいしく食べることは全然違う。
物欲としての食欲を満たすために、上辺の情報を求める。
おいしいのはどれですか、美味いのはどこですか。
次は何、次はどれ。こんな美食家達を見て、魯山人はどう思うのだろうか。
書いていて、どこかで見た一文を思い出した。よく参考にさせていただいている遠藤哲夫さんの著書『ぶっかけめしの悦楽』から。直接の関係は無いかもしれないが、状況がよくわかる。
料理のコツをきくことは《私の生活》のコツを、べつのたとえをすれば、私がイチバン快楽するセックスのコツを、他人にきくのと同じことなのだということに気がつかなくなっている。
クリトリスの一ミリ下の三ミリ右を、日光戦場が原の美しい自然にはぐくまれたススキを初霜がおりた朝とって二五時間三〇秒のあいだ三度の温度と四五度の湿度の八〇リットルの冷蔵庫にほっておいたのでコチョコチョやると、癌の予防ができ雅な快楽が得られると本にあったのでやってみたのですが、ちっとも快楽がえられない、コツを教えてください、と先生であるソープランドのプロ嬢に質問する。
こういうことが、料理をめぐって、本やテレビやカルチャー・スクールを舞台に白昼堂々とやられている。
自分の感覚と言葉で生活するのではなく、コツだのなんだのというテレビタレントていどの「専門家」の、とるにたらない知識を身につけることが、生活であり教養になった。
〜略〜
「コツ」なんてものにふりまわされずに、生活を考える感覚と、言葉を獲得しながら料理の知識や技術を発見し、生活文化を自分の手で豊かにしたい。それでこそ専門家の知識も生きるし、力のある専門家も育つ。


