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非@食べ歩き

食の本~感想・記録・書評みたいなこと。食のニュース批評・食文化の研究を通して食事力を鍛えてます
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『飽食窮民』
斎藤茂男
4764102633

 お金はたくさん無くていい。ぼちぼち充実して、心身健やかに生きていくことはできないものだろうか。と、考えてしまう。
 考えながら私の理性は、甘い。まじめに働け、この社畜ヤロウ。と、いつも自分を脅迫する。

 ああ、そうだ。まじめに働かなければ立派なオトナになれない。

 だけど、いったいどこまでマジメになる必要があるのだろう。どれだけ稼いだら幸せなのだろう。何を手に入れたらいつ死んでもいいと思えるのだろう。いや、死ぬのが惜しくて仕方がないほど手放したくないものは、いつ手に入るのだろう。
 全部よくわからない。もちろん手にとって試すこともできない。


 ある若者が、絶望的に停滞した僻地の山村を飛び出し、出世と豊かな暮らしにあこがれて、保険の外務員となるエピソードがあります。
 彼は、常に厳しいノルマに追われるも、夢あきらめきれず、成績を繕うため、ついに手を出したサラ金をによって、破滅へと向かってしまいます。

仕事のためにサラ金にまで手を出して破滅だなんて馬鹿げている。そう思うかもしれません。しかし、彼を馬鹿にする私たちがやっていることは、将来の豊かさを仕事に託すことしかできなかった彼とは、大して違わないでしょう。

 私たちが求める豊かさ。つまり仕事の苦痛を忘れるための様々な娯楽は、自らの会社の高い生産性によって、ようやく成り立っています。よって、より自由な時間、豊かな娯楽を手に入れようと望めば望むほど、自らの労働を締め上げるのです。そのことが労働をさらに苦痛なものとし、その反動としての娯楽は、際限なくより強い刺激を求めるのです。

 会社は会社。自分は自分らしく、充実した豊かな暮らしをしているつもりでも、その暮らしそのものが会社に依存しているという点で、彼とおなじ会社主義に生かされているのです。

 では、会社に依存しないで豊かに暮らすにはどうすればよいのでしょうか。簡単に言えば、仕事を与えられるのではなく、作り出す人間になり、仕事と生活、娯楽が一つになれば良いと言うことでしょう。
 
 簡単に言いましたが、当然ながら私もそんなステキな人間ではありません。仕事と生活は乖離し、娯楽は苦痛の反動としての逃避です。
 最初に言ったぼちぼちの充実とは、これらバラバラのことが一つになったと感じられるとき、初めて得られるものなのかなと思います。

 労働の主体性というのでしょうか。仕事と生活を結びつけるものとして、食を考えたい。
 食う寝る仕事。どうせ毎日同じことの繰り返しなら、食うことを充実できるかそうでないかで、人生は大きく変わってくると思うのですが、どうでしょう。
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迷走する家族―戦後家族モデルの形成と解体
山田 昌弘
4641173125

 以前、社長から、男は家事・育児などで仕事をおろそかにしてはならない。という意味のことを言われた。と書きました。
 
 あれから、たびたび思うのは、同じ男。同じ親。同じ国の同じ時代に生きているのに、「夫は仕事、妻は家事」という固定観念を持つ人と、そうでない人間がいるのはなぜだろう。ということでした。

 この本は、戦後家族モデルが形成され、修正期を経て、解体されていくさまを追います。
 そして現代家族の迷走状態を描写するなかで、少子化や虐待など、今、家族に起きている問題の原因解明を試みます。
 そのうえで、戦後家族モデルが解体された今、だれもが実現できる、豊かな21世紀型家族モデルとはいったい何か。はたしてそれは形成可能だろうか。という検証がなされます。

 「夫は仕事、妻は家事」と考える世代層が生まれたのはなぜか。どうして、自分はそう思わないのか。ならば自分の描く理想の家族モデルとはなんなのか。
 そんな悩みと向き合うのに、とてもよく整理された本であり、考えるヒントが得られました。

 ところで、ボスが言う「夫は仕事、妻は家事」は、高度成長期において、ひとつの理想の家族モデルでした。事実、それが日本経済にとって非常によく機能した時期があったというのですが、はたして今でもそうなのでしょうか。

 私の結論としては、今はそうではない。と思います。

 高度成長期、長時間の労働に耐え、人並みの努力をしさえすれば、だれもが今より豊かになっていく、という夢が描けました。

 家族の目標は、より多くのモノに囲まれた、豊かな暮らしを実現することであり、その想いは家庭内で共有されていました。 そして、その実現へ向けて、夫が働き、妻が家事を担うという”役割を果たすこと"が、家族への愛情表現だと考えられていたのです。

 ところが今はどうでしょう。
豊かな生活が当たり前に感じられるようになり、かつての目標は到達されてしまったかのように思われます。
 物質的豊かさを実現した家族は、仕事、家事というそれぞれの役割を果たす以上の期待を互いに求めるようになっています。
 かつての理想モデルが正常に働いたとしても、それだけでは豊かな暮らしが実現していると感じなくなっているのです。

 そこに新たな家族の機能として期待されるているのが「コミュニケーション」だと著者は書いています。

 夫婦の役割に目的がなくなって熟年離婚。こんなことが起きています。
仕事よりも、子供の成長を一緒に見てほしいと願う母親が増え、父親も育児に積極的に関わりたいと考えるようになっています。
 父親が、給料袋を持って帰ってくることで尊敬を受けた時代は終わり、家族は家族に対してより精神的な関係を求めています。

 コミュニケーションが求められているにもかかわらず、仕事ばかりで家にいない。育児を妻に押しつける。子供に感心がない。仕事という役割を果たすことが家族への愛情表現だと思いこみ、一生懸命になることがかえって家族を迷走に導くという不幸。

 仕事をして食っていく大変さは、今も昔も同じです。その意味で労働の尊さは変わりません。
 しかし、仕事をして収入を得て、モノを買い、モノに囲まれることが豊かさだと考える価値観は、しょせん他人との比較の上でしか、豊かさを実感することができないのではないでしょうか。 そのうえ、自分の買えるモノの限界は見えてしまっています。

 仕事の成功と、多くの収入を得ること。自分の能力を磨き、より多くの評価を得ること。それ自体は否定しないし、立派なことだけど、ほとんどの人がそうはなれない。凡人として慎ましく生きなければならない。

 この先、たいした収入が得られる見通しはないし、そもそも物質的充足による幸福感は、どこまでも満たされることはないでしょう。
とはいえ、一流プレーヤーにはなれないからと、絶望して死ぬほどのことでもありません。

 死なず、求めすぎず、すり切れず、そこそこに生きるために、何を大事にすればよいだろうか。と考えた結果、私は食を充実させたいと思うようになりました。

 食べるためには、そこそこ稼がなくてはならないから、生活に緊張感が生まれる。食べることにはコミュニケーションがともなう。料理には創作の楽しみがある。食糧を考えることは生活環境を考えることになる。政治を考えることになる。自分と家族の健康に関心が生まれる。なによりも食は無条件に快楽です。金額に作用されない価値があります。食べた気がしない高級料理もあれば、500円で得られる幸せもあるのです。

 食を大事にしようと思えば、まずは時間が必要です。じっくり落ち着いて飯を食いたい。
 
 理想の家族モデルではなく、たんなる私の希望する暮らしでしかありませんが、男でも女でも「外で仕事」だけではだめだと思うのです。
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