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非@食べ歩き

食の本~感想・記録・書評みたいなこと。食のニュース批評・食文化の研究を通して食事力を鍛えてます
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先週、徹夜仕事のあとから何となく体調が悪いと思っていたら、
案の定、この週末に風邪で起きられなくなった。

それでも土曜日も仕事だったんで、何とか遅刻出勤したのだけど、
腹に来る風邪のため何も食べられず、ショウガ湯程度ですませる。

悪寒と栄養不良でくたくたの日々ををこの3日間過ごしているせいで、
体重は2キロ以上も減ってしまった。

普段から、もう少し太った方がいいと言われるのだけど(食いしん坊なのに太りにくい体質)
病気になるとこの有り様。

ヤセ体質というのは、病気や非常時、飢餓に一番弱いはずで、日本に何か事か起きたときには
こりゃダメだな、と病気で気弱な時にだけ考えたりする。
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今日は、ご近所さんからミョウガをたくさんいただいたので、さっそくザクザク切って、冷や奴で食べた。特別に旨いものじゃないけど、季節感というか特別な気分が楽しめてよい。
サンマの新物が入荷し始めましたが、最近では年中解凍物が売られて、ありがたみがなくなってきた。まあ、さすがに新物はうまいですが。

ところで、今日も、昨日も食べた豆腐ですが、原材料を見ると、丸大豆100%使用とある。
丸大豆というとなんだか聞こえは良いけど、要は乾燥しただけの大豆だそうです。
逆に、丸大豆ではない大豆とは、油を抜いた絞りかすである、脱脂加工大豆の事を指し、醤油の原料なんかになるそうです。

で、その丸大豆ですが、この100円豆腐のパッケージには、最近はやりの「遺伝子組み換えでない」の表示がありませんでした。メーカーは、遺伝子組み換え原料を使っていない場合は、ほぼ間違いなくその事を表示するので、表示がないと言うことは使っていると考えて間違いなさそうです。(『リスク眼力』小島正美 172頁)

そもそも、100円の豆腐に高価な原料を期待する方がおかしい。当然コストダウンのために、安い輸入大豆を使うわけで、輸入大豆の中でも安い遺伝子組み換え品を使うわけです。
なぜ安いかといえば、栽培が楽だからです。(『リスク眼力』178頁)

いろいろと問題が取りざたされる遺伝子組み換え作物ですが、私はというと、よく分からないので善悪は判断をしない。というセコい考えなのです。
というのも、合理性の観点から言えば、生産者にも消費者にも、リスクを超える多くの利益があるように思えるし、一方で合理的な価値観で片づけられない、文化や、倫理の面ではよろしくない部分があるようにも感じられるからです。

戦争は悪だ。と、戦争は必ずしも悪ではない。という価値観が、おそらく永遠に片方へ淘汰されることが無いように、遺伝子組み換えや、農薬使用の是非についても決着は見られないでしょう。
合理的に処理できる部分と、そうでない部分の葛藤をいつも抱えているのが人間ですから。
100円でこの旨さ。と、遺伝子組み換え作物ってどうなの?と一応悩み、考えてはみるけれど、今のところ、目先の食欲が勝っている私なのです。

食料主権の本について何か書こうと思っていたけど、訳が分からなくなってきたので、やめた。

一言いうなら、遺伝子組み換え作物が、途上国の飢餓を助長しているというのは考え及ばなかった。安全性で、食うか食わないかの選択ができる余地があるだけでも、日本はまだまだ恵まれた食環境なのだなと思う。
「男は外に出て、狩りをしてくるもの」

詳しい状況は書けないが、ある人から、こんなたしなめを受けた。
とある事情から、その人と、父親の子育てと仕事について議論することになってしまったのです。

議論とはいえ、相手とは超えがたい上下関係があり、私に反論の余地などはなく、言うなれば説教でしたが、こんな話に納得できるはずが無く、ただ自分の身分を嘆いた。

狩り、というのは、要するに金儲けのことであり、
男は仕事、女は家事と育児。というルールを正当化するための常套句です。
現在の企業トップ世代はこのオキテを正義と信じ、バリバリとがんばってきたに違いありません。

日本経済の成長が、こんなモーレツオヤジに支えられてきたという現実は否定できませんが、その影で抑圧されてきた母親の欲求不満がいま、少子問題として現れてきているのではないかと私は思う。

母親つまり女性にも当然、男と同じく様々な欲求があります。
それが「男は外に出て、狩りをしてくるもの」という殺し文句によって
我慢を強要させられてきた。

他方でオヤジは、金儲けを家族のためといいながら、出世欲、名声欲、金銭欲を満足するために好き勝手をやってきた。家事も育児も、仕事の合間のイベント、お楽しみとしてつまみ食いをしてきた。
子供の笑顔だけを見ていいとこ取りで、これも俺のおかげだぞ。と、自己満足まで得てきた。

私は、仕事というのはプラスの活動であり、
家事と育児はゼロの活動だと考えます。
ゼロとは無価値の意味ではなく、人として当然の行いで、褒められたり報酬を得るものではないという意味です。

オヤジは、仕事はオレのやること。
家事、育児はおまえのやること。とまるでそれらが等価値であるかのように言いくるめ、母親に家のことを押しつけてきた。
努力がプラスとして結果を残す仕事と、ゼロの作業が同じわけもなく、
当然、母親にはフラストレーションがたまる一方だ。

産めば産むほど、自己実現願望をあきらめなければならない女性にとって、出産育児がはたして幸せな選択だと思えるかどうか。
オヤジは、自分に置き換えて考えたことがあるだろうか。

私は理想として、自己実現機会が男100:女0、の比率を50づつにして、家事育児も半分づつにできるような家庭にしたいと願っている。
その実践として、勤務時間中に数時間の暇をもらいたいと願い出て、冒頭の説教となったのです。
子供の頃、食卓に時々登場した、キンカン卵がどうにも不気味で食べられなかった。ゆで卵の剥いたものとたいした違いはないのに、生み落とされる前か、後かの違いだけで、食べ物の印象はガラリと変わってしまう。

東南アジアの国々や中国の一部では、アヒルや鶏の卵を、孵化直前に茹でて食べるのが好まれるそうです。ほぼヒヨコの姿をしたものを食べてしまうわけです。
日本人にとっては相当に覚悟がいる、ゲテモノの部類に入りますが、彼らに言わせれば、生卵をご飯にかけて食べるほうが、よほど気味が悪いそうです。
台湾のヤミという部族は、鶏は飼うけど、卵は絶対に食べないそうですし、生卵食を嫌がるヨーロッパの人でも、マヨネーズ作りに卵黄を入れるのは抵抗なかったりします。

生卵といえば、映画『ロッキー』で生卵を飲むシーンがあります。日本人はあれを見て、滋養のために飲んだと理解しますが、アメリカ人にとっては気持ち悪い事でしかありません。
卵を飲むのは、ボクシングの鬼と化したロッキーの、ケダモノ性を演出するためだそうですが、はたして。

などと、ウナギボーンという、ウナギ骨の加工品をバリバリ食べながら考えていた。少々脂っこいがうまい。
そういえば、さっきのヤミはウナギも食べないそうだが、これを見たらなんと言うだろうか。
「うまいよ。食べてみな」とウナギ骨を差し出したならば、彼らに映る私の姿はきっと、イモムシを差し出すアボリジニーのそれと同じに違いない。

そんな空想をして、にやけた。
週末に回転寿司へ行った。
あまり行けないが、外食では一番利用する。
世の中いろんな飲食店があるが、小さい子連れで入るのに、回転寿司ほど適した業態が他にあるだろうか、と思う。

家計に優しいのはもちろんだが、助かるのは、乳児を連れている都合上、
料理が冷める心配もなく、離乳食をやりながらでも、自分のペースでのんびりと食べられることだ。

熱くて危ない物が少ないし、食べ頃だけをつまめる。また、こう言っては何だが、安い店には騒々しい客が多いので、子供が騒いでも迷惑がかかりにくい。
どの点でも、ファミレスよりも、牛丼屋よりも回転寿司に軍配が上がる。

食通曰く「回転寿司なんか、本物を知らない貧乏人の食い物」
ごもっとも、おっしゃる通りで。こちら100円の皿一枚を、とるかどうかで悩む正真正銘の貧乏人でございます。

回転寿司は、子連れに優しく、ありがたいサービスだが、
その立場は「本物の寿司」の劣化量産型だ。
ネタの違いは歴然である。

が、しかし、お金の事を無視した上で、子連れという条件で比べれば、
本物の寿司屋よりも、回転寿司のほうが優れていると言わざるを得ない。
今言ったように、おいしく食べられる環境が整っているからだ。
高い、安いとは別次元の価値観があれば、安くても十分にうまい飯は食える。

そんなわけで、回転寿司が好きだ。
ワタクシ、妻が豆腐好きなので、ほぼ毎日、付き合って食べています。
一丁100円の豆腐があります。文句なしの安物ですが、すべてが同じ味ではありません。
うま味はブランドごとに違っていて、それを確認するのは、私のささやかな楽しみなのです。

この幸せを、たった100円で与えてくれるのは、安価な輸入大豆です。
自給率の低さや、遺伝子組み換え作物の是非についての議論が盛んですが、
私にとって、いま大事なのは、これからも大豆を安定して安く買えるのかということです。

現在、大豆の輸入相手国は、多い順に
(1)アメリカ(318万トン)
(2)ブラジル(78万トン)
(3)カナダ(26万トン)
(4)中国(19万トン)平成16年の実績
となっています。大半をアメリカに頼っているといえます。

大豆は、わたしたちが食用(加工食品を含めて)とするほかにも、家畜のエサとしても消費されています。
国産の食肉も、ほとんど輸入穀物で育っているのです。

食肉と言えば、米国産牛肉が輸入されることになりましたが、これは食糧安保上、好ましいことだと私は思います。

牛肉が輸出できないことについての、アメリカのいらだちはニュースで目にするところでしたが、
日本は、ただ買い手として堂々としていればよいのかといえば、そうでは無いと思います。
米肉がなければよそから買えばよい、国産の食肉を食べればよいという意見があります。

さきほど言ったように、日本の食肉はアメリカの穀物で飼育されています。
今後、アメリカが、輸出できないことの報復として大豆の輸出を制限したり、ますます輸入の増える中国や、インドなどへ優先的に穀物を回すという事態が訪れたとき、わたしたちは国産の食肉さえも食べることが出来なくなるかもしれません。
米国以外の食肉輸出国にとっても、小うるさい日本よりも、中国へ売った方がよい、と考えるかもしれません。

私は、牛肉を食べる機会があまりなく、たまに食べたところで、なんちゃら病になるとも思えないので、米肉については、別にどうでもいいという考えなのです。
しかし、連鎖的に大豆が輸入されなくなると、納豆も、豆乳も、豆腐も食べられなくなってしまいます。
これは非常に困った問題を抱えているのと思うのです。
料理の感想を求めないで欲しい

というよりもなぜ、人は料理の感想を求めるのでしょうか。

私は料理を作るとき、レシピを見たり、頭で考えたりしながら、
それがたとえいい加減なメニューであっても、完成の味をある程度想定している。
レシピに分量がきっちり書いてあっても、それがどんな味か、どんな味にしたいのかを掴んでおかないとおいしくはならないし、偶然うまくできても嬉しいものではない。

つまり料理とは、まず何らかの満足すべき要望をもとにある完成の姿が設定され、その実現のために設計図を描き、効果的な施工を検討して行い、その結果を評価するという一連の作業だと考えている。

だからその評価はまず、設計者自らが下すべきである。
要望にかなった成果物ができたかどうか。
盛り込んだ設計意図は効果的に表現できているか。
施工方法は合理的だったか。など、まず自分なりの採点をしなければならない。そして反省を次に活かすのである。
自分で組み立て、自ら評価するからこそ次に活きるのである。

言い換えれば自己満足である。
自己満足は悪くない。ここはレストランでは無いのだ。
他人の意見なんかどうでもよくて、自分が料理を、食事を楽しみたいという欲求が満足できればそれでいいのだ。私は家で料理を作っても評価を聞かない。特に興味がない。

それでも手作り料理について食卓で話したいと考えるのなら、質問はこうするべきである。
「○○にしようと思って■■したけど、自分では~~だと思うがあなたはどう感じるだろうか?」
もちろん上のようにかしこまった言い方をする必要はないが、発展性のある質問をしない限り創造的な答えは返ってこないのである。

「レシピに載ってたからつくってみたけど。どう?」なんていうのは最も返事に困る。普通の神経を持っていれば料理を作ってもらった立場上、
「おいしいよ」としか言いようがない。

それでいいのか?なにか進歩があるのか。
他人に認められないと満足できないのだろうか。
料理とは芸術と似て、自己完結することができる貴重な体験なのである。
今朝は徹夜になってしまった。

めったにありませんが、徹夜で仕事になると、夕食を19時ころに食べたあとは朝までまともな物を口にしないので、一種のプチ断食になります。

そのせいか今朝はいつもに増して快調な雲古が・・。
空腹のうえに出る物が出たので、スポンジをしぼったように体の中が軽いのです。

じゃあ、徹夜が体に良いのかといえばそんなわけもなく、とにかくけだるい。けだるいからメシを軽くすませば、滋養がなくてやっぱりフラフラ。

まぁ寝ろってことですが、梅雨明けのギラギラした午後の職場でそれもかなわない。、
ふわふわしてつかみどころのない虚脱感に、
徹夜明けにかレーとはいかがなものか」なんて考えてる人をみて無性にカレーが食べたくなったりする。

「味噌汁+カレー」なら、逆にみそ汁にカレーを混ぜて食べてみたい。
ん?あ、和風カレースープか。で、それを白飯にかけて・・・うん、徹夜明けに効きそう。
うぁ、忙しいわぁ。

腹減ったなぁ。晩飯が19時前だったから
もう昼ご飯食べてもいい時間になってるんだな。

こんな残業をした明くる日の朝飯って旨くないんだわ。
はぁ・・・

でもこんな生活毎日やってる社蓄いやいや、勤勉なるサラリーマンって多いんだろうな。同情します。
せいぜいお体、ご家族が健やかでありますように。

子供が遊び食べをするようになった。
しばらくは放っておくけど、目に入ったりするので取り上げる。

そしたら、たいてい不機嫌になってギャーギャー言いだす。
食べさせようとしてもイヤイヤでお手上げ。

まったく、人間くさくなったなぁ。なんて妻と笑っていると、
そのうち機嫌が良くなってまた食べ始めるのだ。
大変に思うが、それが子育ての楽しみだと感じている。

私は定時後、夕食に一時帰宅した後、社に戻り残業をするという方法で、毎日子供と食事をとる時間を作っているが、だれにでも出来るやり方ではない。

多くの核家庭では母親と子供だけで3度の食事をとっているのだろう。
はたしてギャーギャーいう子に母親一人で笑って食事を与えることはできるだろうか。

子供に食事を与えている間、親はろくに自分の箸を持つことが出来ない。子供が順調に食べてくれないと、自分もまともに食べられないのだ。
腹は減るし、ギャーギャー言うし。これは結構ストレスがたまる作業だ。
朝、昼ご飯をそうやって食べさせてやってくれている妻には感謝するしかない。

食事は誰にも与えられた楽しみなのに、育児がからむと苦痛に感じる人もいるだろう。
家でのこんなストレスの蓄積が少子化や、家庭内不和の遠因になっている気がしてならない。世の父親にはもっと子供の食事を見てやって欲しいと思う。

仕事も結構だが、食事を楽しくするのにそれほどお金は必要ないし、食事が楽しければ人生は割と気持ちよく過ごせるような気がする。
『伝統の合理主義』西澤文隆 著

【5】復元とはなにか
復原


伝統”回帰”についてのメモ
復原(回帰)ではなく創造するという心構え
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