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食事力で毎日がうまい
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涌井 徹
『夢の百姓―「正しい野菜づくり」で大儲けした男』
横森 正樹
日本の農業が衰退してしまった原因を考えると、ひとつに、農家の経営意識に潜む問題というものが浮かんでくる。
作れば国が買い取ってくれる。農協が販売してくれるという仕組みが、
販売のことは他人任せ、作ってしまえば後は知らないという経営意識を、農家に蔓延させてしまったのではないだろうか。
もちろんそういった仕組みは、食糧難時下において食料の均等な配分を司ったり、高度成長期に他産業との所得格差を防止したり、また農作物の安定した流通を実現したりと、農業と国民にとって、必ずしも悪いことばかりではなかった。
だが結果として、そうやって麻痺させられた経営感覚が、日本農業を補助金なしでは経営が成り立たないような、あるいは、食べ物の多くを輸入に頼ることもやむなしと言わしめるような弱い産業にしてしまったのは事実ではないだろうか。
ただ、そんな状況にあっても、それでも中には、経営として農業を成り立たせ、他産業に負けない収益を上げている企業や生産者がある。
この2冊は、農業を儲かるビジネスとして育てあげた著者らが、その仕事と理念、目標などを、自身の半生を織りまぜて著したものである。
農業とは農作物を作ること。そんな認識がまだ一般的ではないだろうか。
我々消費者のみならず、農家でさえもそのように考える人も多いのかもしれない。
だが、他産業がそうであるように、売ることを考えないで商品が生産されることなど、本来はあり得ない。従って農業もいかに売るかを考えた経営をするのが当然である。
両著には、片や高付加価値の追求、片やいかに安く売るか、とそのアプローチや理念に違いが見られる。
しかし、売れる農業を目指し、それによって農業を持続可能な産業として成り立たせたいという熱意は共通したものがあり、強く共感を覚えるものである。
自分が農業をやるならば、この人たちのような理想を持って挑みたいものである。
生源寺 眞一
食の安全や安心や、WTO/FTAの自由貿易圧力の強まりなど、食料と農業に関する話題に事欠かないこのごろである。
この本はそれらの問題を様々な角度から読み解き、考える切り口を丁寧に解説したものである。
著者曰く、日々氾濫する情報を整理し、無駄を廃棄し、日本の食料と農業の問題を見通しよく考えるための、「情報の整頓箱」の提供が本書のねらいなのである。
■次代の農村ビジョンを持つこと
相変わらず転職就農を模索(先送り?)していくなかで考えるのは、「なぜ農業なのか?」ということである。
農業を目指す理由が、たんなる田舎暮らしや、土と緑に囲まれた牧歌的悠々自適生活にあこがれるから、というのでは、金持ちの定年退職者ならともかく、それで飯を食っていこうと考える者にとっては、ほとんど実現性がないといって言えるだろう。
いわば、社長になれば好き勝手にできるからと会社を辞めるのとほとんど同じである。
そんな夢物語をまず否定するところから出発して、今なお自分の中にある農業へのあこがれ。この気持ちは一体なんだろうか。それを言葉にすることが「なぜ?」への答えになるのではないだろうか。
その答えを探す読書の中で、この本から得たのが、"次代の農村ビジョン”というテーマである。
日本の農村政策は、次世代の農業と農村を形づくる大きな方向性のなかで、現在、その中身を二つの大きな要素に区別している。
一つは、思い切って替えるべき要素。もう一方は将来に向けてしっかり守り抜くべき要素の二つである。
変えるべき要素とは、市場原理活用の強調を軸とし、株式会社参入、価格制度見直し、産地作り対策など、農産物市場にたいする政府の過剰な介入を控える方向への転換により、攻めの農業を育てることである。
また、消費者のニーズに敏感で、なおかつその手応えを糧として農業経営を行う者をしっかり支えることにより、結果的に自給率を上昇させようという狙いもある。
後者の守り抜くべき要素とは、農業の多面的機能と呼ばれるものが将来にわたって機能し続けることである。
このように書くと堅苦しいが、要するに、農業と一体となった自然環境の保全と、それらが見せる良好な景観の保護。
また、農業を支える水資源や環境を、農村の住民自ら保全することなどで成り立っている地域社会の維持と活性化。
あるいは農業生産と農村生活をめぐる教えや技、それが育んできた地方色豊かな文化の伝承などである。
それらが、農業の多面的機能として、国民の共有財産の認識のもとで守っていこうというのである。
変えるべき要素によって、市場原理の積極的な導入をもたらすことと、農業の多面的機能を守ることは実は相反する部分がある。
今、日豪EPA/FTAによる日本農業へのダメージが懸念されている。
日本農業へのダメージとはすなわち、これたもたらす多面的機能が失われることである。
しかし、国内においてニーズを重視した攻めの農業を強調するかたわらら、貿易に制限を加え続けることは、不自然なこととも言える。
もちろん相手の力量に桁違いの差があれば、政治的努力によってある程度の保護をかけることは必要だが、それも国内農業の改革によって力をつけ、段階的に解除されていくことが求められるだろう。
日本において農業が力をつけるとはどういうことだろうか。
経営規模、効率においては逆立ちしても大陸農業にかなうことはあり得ない。
自ずとコスト削減において国際競争力を持つことには限界がある。
では、なにをもって農業が継続されていくか。それが多面的機能である。
その価値を国民が共有の財産としての認識をもつことで、農業・農村が継続されていく。
それが納税による間接的な農村保護なのか、国産品購買意志による直接的な支援なのか、どういう形をとっていくのかはわからない。わからないが、水は低きに流れるという。金のかからない方に気持ちが動いていくことは止められないだろう。つまり輸入は増大するだろうということだ。
そのながれがとことんまで進んだとき、日本の風景がどう変わってしまっているか、これは何となく想像できるだろう。それをどう判断するかは国民に委ねられている。
私は、できることなら将来も、農村があって農業があって、地方色が豊かな文化があって、山紫水明、山海の幸にあふれる日本であってほしいと思う。グローバル化は避けられない流れだとしても、そのなかで価格を超えた快さを提供できるような、国内農業・農村が次代の農村のビジョンである。
私はそれを担っていく一員になりたい。とどこかで感じているようだ。
これは、全国の自治体や農業法人のブースが設置され、就農や就職、農業一般の相談に当たるほか、新規就農経験者との面談や、セミナーに参加できる催しである。もちろん無料だ。
10時半にオープンした会場へ着いたときには11時だったが、すでに大勢の人でにぎわっていた。そして意外に多様な人種が居ることにまず驚いた。
若いのは高校を出たてような人から、いわゆる団塊の世代といわれる辺りの年齢層の人。自分と同年代のおっさんどもはもちろん、リクルートスーツの女子大生風などもちらほら。
やっぱり流行なのかなぁ。
到着してすぐ、最初のセミナーの時間となり、新規就農経験者と就農センター担当官とのディスカッションを拝聴することになった。
農業をやることの良さ、おもしろさとともに、それとは切り離すことができない経営の厳しさと、気象天候には勝てない現実。そんな話題が披露され、本を読むだけでは実感できない農業の姿に、多少の現実感が湧いてきた。
次に、ある県のブースで話を聞いてみることにした。この県は、私がもし就農するならここがいいかなと思っている地域だ。
尋ねたのは麦作についてである。その県での麦作の動向や将来性を聞くつもりだった。というのも、私はパンも粉物も大好きで、ビールや麦飯も好きだ。もしできるならば、ムギを栽培したいと思っているからだ。
それで肝心の話だが、結局、現時点では麦での経営というのは収益的に難しいですよ。という話になってしまった。聞きたかったことを上手く聞き出すことができなかった。
私の知識の浅さから質問の仕方も悪く、相手も何をしゃべってよいのかわからなかっただろう。
麦では生活できない。まあ、その通りだろう。農林統計を見てもそれはわかる。気候、規模的にいっても、とても外国産に太刀打ちできる作目ではない。
(でも国民のカロリー摂取量の12%はムギから得ているのだから、もっと国産にこだわってもいいのではないだろうか)
話がそれるのでそのことはまた書きたい。
あと、岩手の法人ブースでも小麦のことを教えてもらった。
国産小麦の現状のことなど、いくつかのお話を聞けたが、特に印象的だったことが一つあった。
岩手県は南部小麦の産地だが、その法人ではパン用小麦について、需要家と売買契約している量の2倍の収量を見込んで作付けしているとのこと。
麦は米に比べて収量の年次変動が大きい作物である。ある程度の余剰は見込んでおくべきだろうが、2倍というのは大変なことだ。それだけコストに響くわけだし、豊作なら暴落のおそれもあるだろう。
とにかく産地としてノウハウも施設もそれなりにあるところでもこんな麦作経営なのだ。その意味では、ムギを主体にした営農など夢物語かもしれない。
では、他の作物との複合栽培ならどうか。そんな遊び半分な気持ちで思いを巡らすのもまた楽し。
古代から栽培され、食べられ、現代においても主要なカロリー源のみならず、嗜好品として日本人の食に欠かせないムギ。なのにその歴史は、コメに隠れた影の存在であった。そして影はいつの間にか外国産に取って代わってしまった。別に外国産を悪者だと言うつもりはないが、我々日本人には米だけでなく麦のDNAも流れていることを、もう少し意識してもよいのではないかと思うのだ。
フェアで、得たものは、もっと自分のしたいと思うことをよく知らなければならないという教訓であった。
藤岡 幹恭 小泉 貞彦
以前にも紹介した藤岡 幹恭・小泉 貞彦両氏による農業本である。
前著と同じく、農業と食料にまつわるトピックが多岐に渡ってつづられている。なかでも、一般に部外者にはわかりにくい、農業、食料の政策についての解説は、私のような初学者にも、大変わかりやすいものである。
取り上げられるどの話題も大変興味深いものだが、なかでも私は、日本の農業の現在と世界の情勢、これからの日本農業のありかたを述べた部分を重点的に読み進めた。
特に、日本の農業が価格競争において世界に敗北していくわけと、それを簡単に克服できない足かせの構造については是非とも知っておきたいことである。
政策、農家、消費者とそれぞれに思惑があり、それらが複雑に絡み合った結果としての、零細農による敗北である。
我々、消費者の立場としては、遺伝子組み換え作物や、農薬等、農業の効率化に寄与する技術を、闇雲に拒否するのではなく、そのメリットも考慮するべきである。
それらを推進する政策を評価したり、日々の購買面でも、無知からの拒絶を反省してみる態度が必要ではないだろうか。
最近の私の読書テーマは、私が農業をやるなら、どんな農業をどんな風にやりたいか、を煮詰めていくことである。
実際の農作業や、技術を習得することが農家としての大原則であるには違いない。しかし、そんなミクロ世界の視野だけでは、これからの農業は立ち行かないだろう。
このさき高齢化とともに消えていく日本農業ではあまりにも寂しい。
できるだけ多くの人が自分の食と農に関心をもって、関わり、農業が身近に感じられる社会になってほしい。そして、私はそれを行動で示せるような人生を目指したい。 さて、どうしたもんかな・・・
伏木 亨・山極 寿一・サントリー次世代研究所
「食の崩壊」が叫ばれて何十年経ったのかしらないが、新しい日本の食文化は、今の子供たちにも脈々と受け継がれているようだ。
食の崩壊をいくら叫ぼうとも、それが自身の問題であると認識されない限り何の改善も起こらないのは当然である。
事実、心の病の場合を除いて、この飽食の社会では、何を食べていても、空腹が満たされる限り、「食の崩壊」が原因で死んでしまうようなことはほとんどないにちがいない。
おいしいと思うものばかり食べて、好きな時間に好きなメンバー、あるいは一人で食べる。
デントー的な味や料理など知らなくても十分に食欲は満たされるし、知らなくて誰に迷惑をかけるわけでもない。
こんな状況でだれが、「私の食の崩壊」をなんとかしなければと思うのだろうか。
そもそも、現状の満足をあえて疑い、"崩壊"の崩壊を試みる価値は一体どこにあるというのだろう。
なんて・・、まあ、誰もこんなくだらないことを考えて崩食時代を謳歌してる訳じゃないだろう。
しかし、この「食の崩壊」と言われる状況の背景には、現代の我々の食に内在する様々な課題の存在。それに気づいていないという不幸があるのではないか。そんな課題をいろいろ取り上げ、議論してみようと言うのが本書の狙いである。
本書はまず、栄養科学者・伏木亨、霊長類学、人類学者・山極寿一によって「食の現代的課題」が提示される。
その上で、食にまつわる各界10名のゲストによる小論と、それをベースにした伏木、山極氏との鼎談によって、問題を議論していこうという構成である。
食育の意味や、食文化の継承、食糧自給率、などが取り上げられるが、中でも私が強く関心を持ったのは、食を介した人間関係についてであった。
これについては、ゲスト、鷲田清一氏の小論が面白かった。
少し引用する。
(私たちは)生き物としての「食える・食えない」ではない次元で解釈を入れて、自己と他者の境界にあるものをタブーにしたり、あるいは、「旨い・まずい」という基準で、まずいものは栄養があっても食べられないという新しい秩序に移行している。
食べることは命をつなぐ一番基本的なことだから、生理にベースがあることは間違いないんだけれども、その生理の次元での規則とは違う規則で作り変えたから、壊れやすいんですね。ものすごく、深いショックを受けたときに失語症に陥るのと同じ。すごく不安定なもので、何かショッキングなことがあったら、食べられなくなったり、食自体を否定したり、絶えず何かを食べていたり、あるいはものすごく早食いになったりする。
(略)
そこで、「共食」(きょうしょく)という、決まった時間にみんなで食べる形で、食事をリチュアル(儀礼)にしてしまって、決まった時間に食べる習慣をつくらないといけない。好きなときに食べていると食の構造・秩序は壊れてしまうから、リチュアル化して設定したのではないかと思う。食欲がなくても、この時間になったら一緒に食べましょうと。
私たちは、飢え、という生理現象に従って食べている。しかし食物ならなんでも食べるわけではない。なにかを「食える・食えない」というとき、それはその生理的理由により制限しているのではなく、実はその人の属する文化によって形成されたある秩序に従って、食べるものを制限している。
つまり、人の食は、動物的な生理に基づく行為であることは間違いでないにせよ、その生理とは次元の違う規則でつくり変えられた、壊れやすい、異常を起こしやすい行為になってしまっているということだ。
だから、「共食」によって食事を儀礼化することには、食の"たが"を外さないために大切なことではないだろうか。と論じている。
私は、「食の崩壊」はまず、父親の食事不参加が元凶だと思っている。
不参加の理由は色々あるだろうが、大方は仕事でいないからだろう。
結論から言って、これは解決不可能の問題であるが、せめて自分だけはそうならないようになれればと思っている。仕事の方を食環境に合わせようという気持ちでいる。
まあ、そんな思いもあって、農業で自立できないかな。なんて毎日妄想しているのですが。
10名のゲスト一覧
石毛直道
熊倉功夫
中東久雄
鷲田清一
大平健
中村靖彦
八田逸三
江原絢子
服部幸應
坂本廣子
私、からだ(?)で稼いでます! SAYURI式 農業のススメ。
ブログは大変にぎわっているようで、注目度が高いようです。
南北問題著しい我が県北部においてこんな動きがあると知り、なんだか勇気づけられる思いです。
次世代の地域農業を担っていく大きな力になっていってほしいと思います。
いきなり褒めちぎりました。
どうして私が、見ず知らずの方をこんなに持ち上げるのでしょうか。
それは、農業をやる人も、協力者も、そして消費者も、みなが農業を楽しげに思うようになってほしいからです。
たとえみせかけの雰囲気でもいいから、消費者が、農業の活き活きとしているのを感じられるようになってほしい。
そしてそれが自分の生活、暮らしをより楽しくすることを実感できるような農業と消費者の関係が築かれるようになってほしい。
そんな期待と未来をこの方のブログに感じました。
様々な補助金や制度を経て、我々の税は農業を間接的に支援している。
言い換えれば、我々も農業者の一部。
もはや国内農業も、国産食料も打ち捨てろという意見はあってもよいが、もしそうでないなら、時代遅れの斜陽産業などと罵りるよりも、積極的に関心をもち、自分たちの農と食を考えてみてはどうか。
と、自戒のために偉そうに書いておく。
藤岡 幹恭・小泉 貞彦
以前紹介した、『農業に転職する―失敗しない体験的「実践マニュアル」』のなかで、著者推薦の農業本に挙げられていたので、試しに読んでみた。
著者のひとり、藤岡幹恭氏はジャーナリスト。
小泉貞彦氏も同じくジャーナリストである。
ふたりは1990年より、ほぼ5年間隔で、農業界の動きをまとめた著書を出しているが、この本はその2冊目で、1995年の刊行である。
雑学とは銘打っているが、決してへぇ〜ではすまない、日本の農業にとって重要な農政農経関連の話題を多くとりあげ、具体的かつ丁寧に解説されている。
しかし本音を言えば、やや難解な箇所も多少あった。最初から全部すんなり理解できるとはいえない。ただそれは、私の農業への無知、これまでの無関心さが原因だろう。
すこし難しい、でもまあ、じっくり読めばなんとなくは分かってくるように書いてある。
もともと農経農政など、初めから専門書を読んだところで理解不能に違いない。その意味で農業の基本から知りたい人には、有坪氏と同じく、私もおすすめしたい一冊である。
近頃、食べることや、食の文化に触れる書物に触れていない。自分でもやや退屈気味に感じているところだ。
しかし、今後も農業の事を考えていくにあたり、戦後農政から現代にいたる流れを大きくつかみ、それを将来を見通す材料にすることは大事なことだろう。
「産地廃棄」は、豊作や暖冬などで、供給が過剰になる野菜の価格暴落を防ぐ目的で行われる経済行為の一つだ。
私は、現状ならやむなしと考えるが、世間的には、もったいない、不道徳だという見方をする人もいるようだ。
私もできることなら有効に、誰も損せずに処分できればとは思う。たしかに廃棄するのは惜しいことだ。
しかし、だからといって、国民に安く配給するというアイデアは間違っているだろう。
単純に言って、通常の流通によって中間マージンを取っている業者の利益が失われる。その補填は誰が行うのだろうか。国庫で負担したところで、結局は消費者がその負担を負っていることに変わりはない。
簡単に考えて、廃棄しないで済む方法。それは、残さず食べ尽くすことだ。
季節のとれたて野菜を地産地消の精神で、毎日毎日、毎食毎食食べれば、
廃棄の量はずいぶんと減るだろう。
が、そんなことは私もしたくないし、誰もしたくないだろう。
国が貧しかった頃の農家なら"親のかたきのように"喰ったという話もあるが、今さら戻ることはできない。
いくら安くても毎日食べるのはイヤだ、という我々が思う限り、余るものは廃棄される。これはどうしようもないのだ。
農作物は、工業製品と違い、需要を予測して、価格の安定や在庫の調整を計ることは難しい。産地廃棄とは要するに在庫処分の事だが、決して売れる見込みのない作付けをした結果として、廃棄しているのではないのだ。
また、処分の仕方を考える前に、常に供給不足な状態を設定することができれば、廃棄を減らすことはできるだろう。
しかし、それによる価格の高騰を許容する覚悟が消費者にあるだろうか。
いや、それ以前に、価格が高騰することが分かれば誰もが作付けするので、すぐに供給不足の状態は解消してしまうだろうが。
産地廃棄が教育に悪い。と言う前に、自分たちの消費のあり方を考えてみるといいかもしれない。私には産地廃棄は必要悪に思える。
一方、動物園に、というのも一見良さそうだが問題もあるだろう。
もし、市民の自費で、畑から園まで適切に運ばれ、動物に与えられたとしたら、確かにエサ代の軽減にはなるだろうし、廃棄も減るだろう。
しかし、それまで与えられていたエサはどうなるのか。おそらく普段、動物たちは、市場でほとんど値の付かない、規格外のB級品を与えられているのではないか。
その代わりになるものが持ってこられたら、B級品の行き場が無くなってしまい、結局は廃棄されるのではないだろうか。
もしそうだとしたら、これはもったいなくはないのだろうか。
先日、近くのダチョウの牧場へ、子供を連れて見に行った。
ダチョウといっても趣味や、見せ物ではなく、家畜として飼われており、30人のオーナーによって共同で運営されているという。
なんの話かというと、そこのダチョウの柵に大量のキャベツが
エサとして積んであった。キャベツは産地廃棄の対象となるなっているが、これは余剰生産分の有効活用だろうか。
ダチョウは雑食で、エサが肉になる効率が、牛の4倍だという。
しかも、低脂肪で健康食として人気が出てきているらしい。
ダチョウ牧場は見たところ、柵以外にたいした設備もなく、空き地に柵と管理小屋と水さえあれば飼えそうな様子だった。
折しも食糧自給率の向上が叫ばれる中、輸入飼料に頼る牛肉生産を、
余剰農産物を利用してのダチョウ飼育にシフトできれば、食文化的にも
面白い展開が起こりそうだ。
まずはダチョウ肉とやらを食べてみたい。

ニュースソースは続きから・・・
神山 安雄
今月も飽きずに就農本を読み漁っている。
この本は、これまで読んできた中で最もガイドブック的要素が強い。
内容は、法的な手続きや、資金の調達、借金の仕方。農地の取得から住居探しなど、新規就農にかかわる制度や手続きを全般的に網羅したものとなっている。
また、就農の一つのパターンとして、農業法人への就職についても触れ、その仕組みや求められている人材、就業についての注意事項などについても述べられている。
特に就農を目的にしない場合でも、農協の事や、農家の仕組み。あるいは農業政策や、農業の世界界を学ぶテキストになるだろう。
就農についてテクニカルな部分では、営農計画の立て方についても解説があるが、この点では以前紹介した有坪氏の『農業に転職する―失敗しない体験的「実践マニュアル」』の方がより具体的である。
ちなみに「あなたにもできる」と題にあるのは、なにか就農の秘訣をこっそり教えますよ。といった暗示ではなく、法制度上、だれでも農家になることは「可能」ですよ。という程度の意味だと思って読むといいだろう。
黒沢 隆次
先日紹介したものと同様の就農マニュアル本。
その有坪民雄氏の著書に比べると、ややテクニカルな内容は少なく感じる。しかし、中高年や団塊世代の就農という現象につきまとう、ある種の趣味的、自己満足的な匂いはなく、手始めに読む本としては色々と勉強になる。
勉強になるとはいうが、分かってくるのは、生やさしい世界じゃないし、軍資金もたくさんいるとうこと。
夢はふくらむが、いや、これはなかなか厳しいですぞ。
また、農業経営を立派にやりながら、書物も書けるような秀才たちと自分との格差を考えると複雑な気分にもさせされる。
ともあれ、中高年といわず、就農になにかしら関心のある方は、一読されてみてはいかがか。
有坪 民雄
以前このブログで紹介した、 『イラスト図解 農業のしくみ』の著者による就農マニュアルである。
『イラスト図解〜』は、現代農業の主要なトピックがコンパクトにまとめられた良書だった。
その中でも、就農についていくらかページが割かれていたが、本書はその点をより深く解説したものである。
内容は、就農そして農業で食っていけることを目標とし、その実現を果たすための具体的なマニュアルとなるよう意図されて書かれている。
具体的には、就農時営農計画書のフォーマットや就農アドバイザーとの交渉の進め方、経営計画の立て方や農地取得の段取り等のほか、いかに作物を売り収入を得ていくのかなど、経営コンサルティング業を経てきた著者ならではといえる実践的な記述が豊富である。
また、農村での人間関係の構築方法や、農機具販売業者とのつきあい方など、農家としての経験をもとに語られる様々なノウハウも書かれている。
これらは、農業で生きることにとって重要な要素であると想像できるが、公的な就農支援機関からは得られにくい情報であろう。
「新規就農希望者が、どのような努力をすればよいか知らない」
と著者が語るように、私のように夢を持つだけで、目標を定めず、努力の仕方も分からない者にとってとても役立つ本だ。
ただし、リアルな情報だけに役立ちもするが、同時に現実を直視させられ、おじけづかされたのも事実だ。
本書のようにできれば、成功の確率を高めることは可能かもしれない、という気分になるが、それはまた、最低これくらいの事は実行できなければやっていかれない。という警告のメッセージとも受け取れる。
夢やあこがれは動機として結構だが、それだけで食っていけるほど農業が生やさしい営みでないことをあらためて思い知った。
自分への問いかけと、軍資金がどうやらまだまだ必要らしい。
が、検索して来る誰かの参考になればと思います。
手持ちのキヤノンのプリンタ・ピクサスMP500で使えるBluetoothアダプタを、純正以外で探していました。 定価8500円も出せませんので。
で、某ネット情報を頼りに、ダメもとでEVERGREEN EG-BT2204を買ってみたところ、
無事、動作確認。
ただし、USBの延長コードみたいなのを使わないと奥まで刺さりませんのでご注意。コードは100円ショップでも手に入るかも知れません。
CANON純正よりも5000円安いBluethoothアダプタ
その後、中国製の怪しいBTドングルでも認識しました。こちらは千円くらいでした。




